――――――季節は秋。


ボク、遠野志貴は、八年ぶりに実家に帰る事になった。


「ほら、志貴。今日はいつもの時間より遅いわよ。」
「はーい、いまいきまーす。」
玄関先からの啓子さんの声に返事をして、ボクは自分の部屋だった場所へ振り返った。

「八年間、ありがとう。またね。」
部屋へ向けて頭を下げ、鞄を一つだけ持って部屋を後にした。



玄関を出て、有間の家を振り返る。

「…志貴。」
玄関先まで見送りに来た啓子さんは、ひどく寂しげな目で、ボクの名前を口にした。

「いってきます…。お母さん、お元気で。」
ボクがそう言うと、啓子さんは更に寂しそうな目でボクを見つめる。

「…お父さんにもよろしく言っておいて下さい。今まで、お世話になりました。」
ボクはそう言い、深く頭を下げる。
啓子さんは、ただ頷くだけだった。
八年間、義理ではあるが親子として生活してきて、啓子さんのこんな顔は初めて見たと思う。

「遠野の生活は大変でしょうから、頑張ってね。
貴女は体は頑丈だけど、貧血とかあるんですから。」
「大丈夫ですよ。最近はほとんどありませんから。」
「そうね…。でもね、遠野のお屋敷の人達はみなどこか違う方ですから、圧倒されないか心配で…。」

啓子さんの言いたい事はよく分かる。
恐らくお屋敷にいる人達は知らないだろうけど、ボクには昔の記憶がきちんとあるから。

昔、住んでいた家は立派なお屋敷で、坂の上に聳え立つお城みたいに見えた。
家が立派なら家柄も立派で、いくつかの会社の株主なんかもやっているはずだ。
そして、そこがボクにとって、用意された『本当の家』である。

「はい。でも、もう決めましたから。
…今までお世話になりました。それじゃぁ、いってきます。」
最後にそう挨拶をして、ボクは八年間慣れ親しんだ有間の家を後にした。



「…はぁ。」
有間の家を離れて、いつもの通学路に出た途端、気が重くなった。


―――――――八年前。

普通なら即死の重症から奇跡の回復をしたボクは、親元である遠野の家から分家である有間の家へ預けられた。
ボクは九歳まで実の両親の家である遠野の家で生活をして、
その後の八年間、高校二年生である今までを親戚である有間の家で暮らしていた、という事に『なっている』。

ほとんど養子という形で有間へ預けられたボクの生活は、家庭の中だけ見ればいたってノーマルだった。
あの時、先生と草原で会い、その先生に弟子入りしてからは、ボクの生活は半分『非日常』に浸かっていた。

まず、先生が教えてくれたのは自分の力の使い方。
本来なら今でも使っている『魔眼殺し』なんて、必要はなかった。
自分の力を上手くコントロールする術を教えてもらい、自分の本当の家――七夜という一族――についても知り、
自身の特異身体能力、魔術回路の使用法、貯蔵魔力の使用法など、全て先生に教えてもらった。
それから、ボクは先生の弟子として協会へと入り、日々依頼される雑用をこなしていた。
まぁ、その中には単純な書類整理などから厄介な人外、魔獣などの退治などもあったが。
そうして遠くへ出かける間、有間の家には『旅行』なりなんなりと理由をつけて数日離れる事もあった。
その分、収入も入るがそれはとりあえず貯金したりしている。


「はぁ…。」
ボクはまた溜息をついた。

遠野の家は子供心に行儀作法やらなんやらとうるさい人が多く、ボクは苦手だった。
確かにボクは七夜の里から遠野の屋敷に連れられて来た時、槙久の暗示にかかった『フリ』をしていたが、あそこまで行儀などにうるさいと嫌になる。
だから、有間の家に預けられると言われた時、心の中では助かった、などとも考えていた。

結果、ボクはこうして協会で仕事をしながら、平穏無事な家族生活をしていた。
啓子さんや文臣さんともうまくやっていたし、中学生になる有間の実の娘、都子ちゃんともうまくやっていけていたと思う。
元々七夜も遠野も一般的ではなかったから、そういう一般的な家庭に少々憧れがあったんだと思う。
実際、遠野志貴は、有間の家で実の子供のように暮らしてきた。

ただ、一つ心配だったのは、ボクより一つ年下の義理の妹と、一緒に遊んでいた女の子、窓際からボク達を見ていた女の子、
そして…、処断された『遠野四季』の事が、有間の家にいても心配だった。

「…秋葉やみんな、怒ってるかな。」
一応、義理ではあるが養子として迎えられたボクに、秋葉はよく懐いてくれた。
それを放っておいて、一人で外に逃げ出してきてしまったボクをどう思っているかは容易に想像できる。
恐らく、向こうはボクが槙久の暗示にかかっていると思っているだろうが、それはとりあえず関係ない。
恐らく秋葉はボクを実の兄と同じように慕ってくれているから、怒っているだろう。
一緒に遊んだ翡翠ちゃんもそれは同じだろう。
それに、琥珀ちゃんも…。

「…はぁ。」
また溜息が漏れた。
今日、学校が終わったらそのまま実家へ帰る。
その時、ボクがボロを出さず、みんなのお叱りを受けない事が、ボクにとって最高の状況だ。
最悪、怒られてもいいからボロは出さないようにできればいい。

「それより、今は目の前の問題をなんとかしなきゃ。」
腕時計は7時45分。
このままでは確実に遅刻してしまう。
ボクは鞄を抱え、学校までダッシュする事にした。


「…ふぅ、こんなもんかなぁ。」
時刻はホームルーム開始前の55分。
いつも通って入り裏門から校庭へと入る。

「…そっかぁ、今日で裏門から入るのも最後か。」
有間の家と遠野の家は学校を挟んで反対側にある。
遠野の屋敷は学校の正門側の坂の上だ。
必然的に向こうへ帰ってからは正門から通う事になる。

かーん、かかーん、かーん。

…小鳥のさえずりに混じって、トンカチの音が聞こえてくる。

かーん、か、かかかーん、かっこん。

「………………。」
これは、呪詛の韻が踏まれている。
明らかにボクを呼んでいる呪詛だ。
ボームルームまで時間が無いのに、全く厄介な話だ。
とりあえず、ボクはトンカチの音のするほうへ歩いていった。




中庭にある並木道の途中。
トンカチやらクギやらを持ってうずくまっている一人の女生徒がいた。
一応、呼ばれたものだから、驚かせないようにそうっと近づいて話し掛ける事にした。

「もしもーし、もうすぐホームルームですよー。」
「はい?」
うずくまった女生徒が顔をあげる。
制服には三年生を示す色のリボンがあった。
上級生の生徒は、じーっとこちらを眺めている。

「あぁ…、えっと、その。」
メガネ越しの女生徒の瞳には、暗示作用が含まれていた。

『とりあえず手伝え。』


見れば、彼女が向かっている添え木は、ボロボロになっていて使い物にならない。
そういえば、ウチの中庭の手入れなんかはたまーに業者がやってくるが、普段は放置状態だった。
だが、わざわざボクを呼んでおいて、暗示を使って修理を手伝わせるって、なにを考えてるんだろう…。
見知らぬ暗示上級生の額には、うっすらと汗ばんでいて、いかに呪詛と一緒に真剣に修理に取り組んでいたかが伺える。
…知る限り、こういった事をする係のようなものが、ウチの学校にはないはずだった。

「あの、なんでしょうか?」
メガネをかけなおして、上級生は聞いてくる。

「いや、大した事じゃないんですけど。なんで修理してるのかなぁ、と。
放っておけば業者が修理に来るでしょ?」
言われて、上級生は『あはは』と笑った。

「私、こういうの見ちゃうと放って置けなくて。
つい我慢できなくて修理したくなっちゃうんですよ。」
放って置けないから修理をしているらしい。
多分、半分くらいは本当だろう。

「…なるほどね。」
「はい、そういう訳です。」
そう言ってお辞儀をして、先輩はまたトンカチを叩きだした。
今度は呪詛の韻は含まれていない。
本当、修理するためだけに呼ばれたのか、ボク…。

「話はわかったけどさ、とりあえず修理は後回しにしたらどう?
もうすぐホームルーム始まっちゃうよ。」
「ダメです。このまま授業が始まっても、ここが気になって授業に集中できませんよ。」
先輩はトンカチを握りながら力説する。

「まぁ、それはそうかもしれませんけど…。」
「でしょう? ですから今の内にやっちゃうんです。」
言って、先輩は慣れない手つきで修理を再開した。

カンカンと、トンカチを叩く音が響く。
見れば、壊れている添え木は一つや二つではなかった。

キーンコーンカーンコーン

加えて、学校に予鈴が鳴り響いた。

「あぁー、一時間目が始まっちゃったか…。」
呼ばれてきたのが運の尽きだ。
無言で座り込んで、添え木の修理作業を手伝う事にした。



いざ手伝ってみればそう大した事じゃなかった。
メガネの上級生は慣れないながらも器用で、コツを掴むとテキパキと作業をこなしてくれた。
体の動きもシャキシャキとしていて、小気味よい人だ。
そうして気付けば、修理するべき添え木は残り一つとなった。

あれから30分ほど経過している。
これ以上遅刻する訳にもいかなし、一つくらいならボクが手伝わなくても大丈夫だろう。

「じゃぁ、ボクはこれで。」
立ち上がってズボンの埃を叩く。
メガネの上級生はボクと同じように立ち上がると、さっきのようにじーっ、とこちらを見つめてきた。
また、暗示だろうか。
冷静に見てみると、この先輩は美人だ。
これだけ美人だったら『三年生にメガネの似合う美人がいる』と話題になっていてもおかしくはない。
まぁ、多分昨日今日紛れ込んできた人なんだろう。
顔立ちや目の色を見ると恐らく日本人とフランス人のハーフかクォーターだろう。

(…多分、教会かなぁ。)
その上級生からは教会の人間特有の気配がする。
教会と協会は敵対関係と言っても差し支えない間柄だ。
ボクは協会の人間だから、この人の前ではボロを出す事はできない。
ここは一つ、暗示にかかったふりをするのが懸命だろう。

「あの…、ボク、行きますから。先輩もほどほどにね。」
はい、と返事をする。
こっちが年下なのに、後輩と話をしているよな気分だ。

「ありがとうございました。手伝って貰って嬉しかったです。」
まぁ、手伝えと言われたので手伝ったというのは内緒だ。

「それじゃ、休み時間にご挨拶へ伺いますね。
あ、ちゃんと手を洗ってくださいね、遠野くん。」
「うん、先輩もね。」
手を挙げて立ち去ろうとする。

―――――――って、これが狙いか…。

「…あれ? ボク、先輩と会った事ありましたっけ?」
ボクがそう聞くと、先輩は「えぇ!」と驚いてから顔を曇らせた。

「遠野くん、私の事覚えてないんですね…。」
確か、教会の人間と会った事はないはずだ。
しかも彼女はボクの名前をちゃんと知っている。
協会には『ミス・ブルーの弟子』という事でコードネームを知っている人間はいるが、ボクの本名を知っている人間は先生かアルクェイドぐらいだ。
とりあえず、そこの探りは後にして、ボクは彼女の手の内で遊ばれる事にした。

「…ええっと……。」
彼女はうらめしそうに下から覗き込んでくる。
その瞳から、暗示がボクの目を伝って流れてきた。

『私シエルを、疑問に思わない。』

はぁ、そういう事か。
どうやら彼女はただの遠野志貴に用事があるらしい。

「――シエル先輩、だっけ?」
とりあえず暗示にかかったふりをして、名前を口にする。

「はい、覚えてくれていてよかった。
遠野くん、ぽーっとしてて忘れてそうだったから。」
…よく言われるが、ぽーっとしているつもりはない。

「それじゃぁまた。寄り道させてしまってごめんなさいでした。」
ペコリとシエル先輩は頭を下げる。
それを眺めながら、校舎へと歩き出した。
とりあえず、今日は彼女は後回しで。









教室につく頃には、もう休み時間になっていた。
ざわざわと込んでいる教室の隙をついて忍び込む。
ボクの机は窓際の一番後ろなので、コソコソ歩けば誰の目にも止まらない。
そうして入っていけば、二時間目の授業の時に「あっ! いつのまにか遠野がいるっ!」
という、日々退屈な授業に少しだけ新鮮な風を送り込む事ができる。

――――――が、今回は見送られたようだ。


「よう、さぼり魔。時間に正確なお前が遅刻するとは、らしくないな。」
「――――はぁ。」
溜息が漏れた。

折角、謎だが美人の先輩と微笑ましい時間を共有してきたのに、一気に現実に叩き込まれた。

「なんだよ、相変わらずシケたツラしやがって。人がたまに朝から来てみれば遅刻してやがるとはどういう了見だ。」
「……あのねぇ。どういう了見もなにも、ボクはお前の為に学校に来ているんじゃないぞ。」
「なにぃ! バカ言うなよ! 俺は遠野の為に学校へ来てるんだぞ! そんなの不公平じゃねぇか!」
「…………。」
なんで、ボクはこんな奴と知り合いだったりするんだろうか。

オレンジに染めた髪、耳元のピアス。
反社会的な風貌と喧嘩上等な目つき。
進学校であるうちの中、一人だけ自由気ままのアウトロー。
それが、今目の前にいやがる乾 有彦君である。

「そもそもな、俺とお前は小学校からの仇敵だろ? ライヴァルにそんなのんびりした顔してると、猫に寝首をかかれるぞ!」
とにかく、こいつは騒がしい。
気が付けば教室の視線はこちらに手中していて、みんな「おはよう、遠野」なんて挨拶をしてくる。

「…有彦、うるさい。こっそり教室に入ってきて次の授業を受けようという意図を台無しにして。
そもそもなんでボクとお前がライヴァルなんだよ。喧嘩強いのだったら他にも一杯いるんだから、あまりかまわないでくれ。」
確かに、中学からこっち総額一万円ほど貸しているから、敵と呼べない事もないけど。

「どうしてかな、遠野って俺にだけ冷たいよな。他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平だ。」
「なんだ、わかってるんじゃん。世の中、公平な事なんてあんまりないよ。」
「…はぁ、なんでかな。やっぱり遠野は俺にだけ冷たいよな。」
大袈裟に溜息をつく有彦。
別にこっちは冷たく当たっている訳ではないんだが、なぜか有彦とはこうなってしまう。

「それより有彦。普段は二時間目から出席するという夜型人間のお前がこの時間からいるとは、どういう風の吹き回し?
何となく、いやかなり気持ち悪いよ。」
「まぁな、俺もそう思う。たまに早起きしたからって朝っぱらから学校なんて来るもんじゃないな。」
「お前の趣味には口出さないよ。ボクが聞きたいのはお前が早起きしてる理由だけだから。」
「そりゃぁ、ほら。夜は最近連続通り魔殺人とかがあるからよ。遠野も知ってるだろ?」
…連続してる通り魔?

「…あー、そっか。そういえばそんな話もあったね。」
ここ最近、遠野の家の事で少し悩んでいたから、世間のニュースには疎くなっている。

「なんだっけ? 凄い低俗な謳い文句だったよね。連続猟奇殺人事件とか。」
「それだけじゃない。被害者は全員若い女で、二日前の事件でやられたのが八人目。
かつ、その全員が…なんだっけ。」
途端、首をかしげて唸る有彦。
コイツに聞いたボクが浅はかだった。

「あぁ、思い出した! 確か額に全員バツの字の傷痕があるんだっけ」
「違うよ、乾くん。被害者は全員体内の血液が著しく失われている、だよ。」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼か、とかいう見出しだもんな。」
「へぇ、詳しいんだね、弓塚さん。」
「そんな事ないよ。この街で起きている事件なんだもん。ニュースを見てれば覚えちゃうよ。」
…そうだったんだ。
確か隣町で起きている事件だと思ったけど、いつのまにかこの街に移り変わっていたんだ。

「…とまぁそういう事だよ。いくら俺でも夜中に殺人犯がうろついているうちは夜遊びはしない。
そういう訳で最近は朝7時に目が醒めるのだ。」
「…なんだ、そんな理由だったんだ。普通でつまんない。」
有彦を軽くあしらいながら席につく。

「なんだ、つれないな。さてはアレか。生理のせいで朝から貧血でも起こしたか。」
「バカ、違うよ。心配してくれるのはありがたいけど、四六時中生理と貧血じゃ体がもたない。」
「まぁ、そりゃそうだな。遠野が大丈夫だって言うなら大丈夫なんだろ。」

キーンコーンカーンコーン

話し込んでいるうちに予鈴が鳴った。

「ほら、授業だよ。席に戻れ。」
「あいよ…、っと、今日の昼飯は食堂だからな。本日はスペシャルゲストも呼んであるから楽しみにしてろよ。」
きしし、と不気味に笑いながら有彦は席へと戻っていった。

「あ…、そ、それじゃぁね。遠野君。」
「あー、うん。弓塚さんも付き合わせて悪かったね。」
なぜか顔を赤らめ、たったったっと弓塚の席へ戻る。


(…生理の話なんかしたからかな。)
普通の女の子は、そういう話は恥かしがるもんだ。







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