「…ねぇ、志貴さん。」
不意に、琥珀さんから声をかけられた。
「ん? どうかした? 琥珀さん。」
「…昨日のお礼、まだ言ってませんでしたよね…。助けてくれて、ありがとうございました。」
琥珀さんはそう言うと、私に一礼してきた。
でも、私は彼女に礼を言われるような事をしたつもりはない。
だって、それは…。
「…お礼なんかいいよ。結局、琥珀さんは傷付いてしまった。だから、私はまた助けられなかったんだよ。」
私がそう言うと、琥珀さんは首を横に振り、寂しそうな笑顔をこちらに向けてくる。
「…それは違います。志貴さんは、私を無傷で助けたい、と思ってるんですね。
それは、とっても嬉しい事ですけど、そんなの無理です。」
「なんで…、無理なのかな…。」
「それはですね、私はずっと前に傷が付いているからです。だから、もう無傷じゃないんです。
ですから、志貴さんは私が無傷じゃない事で自分を責めないで下さい。」
琥珀さんは、寂しそうな笑顔で私に言った。
でも、琥珀さんにそんな顔をさせている時点で、私は自分の力のなさを悔しく思う。
「それは、無理だよ…。助けられなかったのは、自分の所為だから。」
「…志貴さん、私の傷は、ほとんど癒やされてます。」
「…琥珀さん?」
私は琥珀さんが言う言葉が理解できなかった。
「昨日、私は男性に暴力を振るわれた時に、反射的、のような形で、その『行為』の象徴である、槙久様が浮かんだんです。
…人形になる前は、私にとって槙久様は恐怖の対象でしたから、その行為の象徴と恐怖の対象は、私の中に深く刻まれました。
そして、自分を人形だと思うようになった後…、槙久様は私にとっては単なる『モノ』でしか無くなりました。
私は『モノ』に対して何の感情も纏わず、無機質な接し方をしました。
私にとって四季様もそれは同様でした。ただ『モノ』の扱い方を覚える。そう考えるうちに『行為』が『行為』では無くなったんです。」
「…琥珀さん、もう…。」
もうこれ以上言うな、という私の言葉を琥珀さんは首を振って制する。
「…聞いてください。多分誰よりも、志貴さんにとって大事な事ですから。
屋敷に志貴さんが帰ってきて、私の犯してきた行為を全て許してくれた。
私はそれだけで、十分だったんです。
ですが、志貴さんは私を『人形』から『琥珀』に戻してくれた。
そして、今もこうして護って、癒してくれています…。
私は人形から琥珀に戻った時に、痛みも、苦しみも、喜びと一緒に戻ってきたんです。
…今朝、言ってくれましたよね、『私が私でいる為の痛みだったら分けて欲しい』って。
あの時、凄く嬉しくて、みっともないですけど泣いちゃいました。
過去の傷痕は残りますけど、痛みはもうありません。
今朝、私が人形として一日を送ろうとした時も、志貴さんはすぐに気付いて私を琥珀に戻しちゃいました。
昨日の恐怖も私が私でいる為の痛みで、それは志貴さんも一緒に痛がってくれました。
志貴さんが全て、癒してくれたんです…。
ですから…、志貴さんの痛みも、私に分けてください。
志貴さんは、自分の心配は全然なさらないから、心配なんです…。」
琥珀さんは私の顔を見て、曇りがちな笑顔でそう言った。
「…琥珀さん。私は、大丈夫だよ。」
「嘘です。恐らく誰よりも、志貴さんの傷は深いんです。
それなのに、志貴さんは他人の心配ばかりしちゃうんです。」
「…琥珀さん、私にも傷があるんだったら、それはもう癒されてるよ。
みんなが私の側にいてくれるから、それでもう、癒されてる。だから大丈夫。私の傷は、もう痛くないから。」
「…志貴さん。本当に、優しすぎますよ…。でも、これだけは覚えておいて下さい。」
「うん…? なに?」
琥珀さんが足を止める。
寮へと続く一般道。丘になっている道路。林へ続く坂道。道路の脇には空。眼下には、住宅街が広がる。
夕焼けが琥珀さんの後ろで輝く。
「志貴さんが苦しんだら、私も苦しみます。志貴さんが悲しんだら、私も悲しみます。」
「…琥珀、さん…。」
「…志貴さんが亡くなったら、私も死にます。
―――――これだけは…、覚えておいてください。」
真剣な、真っ直ぐ私を見つめる瞳に、私は心を奪われた。
「ダメだよ、琥珀さん…。そんな事、言っちゃダメだ。」
私は琥珀さんから顔を背けて、呟く。
「私は、琥珀さんには辛い顔や哀しい顔をして欲しくない。
私は、琥珀さんには幸せになって欲しいんだ…。それは、秋葉や翡翠だって同じだよ。
それなのに、その幸せを自分から放棄するような事を言っちゃダメだ…。
私はきっと、今後苦しんだり、悲しんだりする事が必ずある…。
その時に、一緒に苦しんだりしてくれるっというのは凄い嬉しい事だけど…、
それは、凄い辛い事だ。
そうなった時、私は絶対思ってしまう。
『琥珀さんを悲しませてるのは私なんだ』って。
私だけが辛いのは耐えられる。
でも、それで他のみんなが苦しんでいるのは、どうしても、耐えられない…。
私が幸せにしなくちゃいけない人達が、私の所為で苦しんでいるなんて、耐えられないよ…。」
私は唇を噛み締めてそう呟く。
「…志貴さん、志貴さんは優しすぎます。
自分を省みないで私や、秋葉さま達を護ろうとしてくださる。
でもそれは、護られるほうからすれば、とても辛い事です。」
琥珀さんは、そう言いながら私に笑いかける。
「…琥珀さん。」
「だって、私達は護られるばかりで、何もできない。
それは凄く辛いです。
少しでも力になってあげたい、少しでも笑ってもらいたい。
みんなそう思うはずです。
だってそれは、みんな志貴さんが好きだから。
でも、志貴さんは今、それすら拒絶して私達を護ろうとしている。
私達に出来る事があるんですから、それをさせて下さい。
私達は志貴さんが好きだから、そうするんです。
それとも志貴さんは、私の事、お嫌いですか?」
柔らかい笑顔で、琥珀さんが聞いてくる。
琥珀さんの質問は、間違っている。
だって、それなら…。
「…琥珀さん、そんな訳ないだろ。
それだったら、幸せになって欲しい、護りたい、なんて思わない。」
好きだからそう思うんだ。
「でしたら、私達が志貴さんと一緒に苦しむのを許してください。
だって、私達も志貴さんには幸せになって欲しいし、できるなら志貴さんの事をお護りしたいんです。
私は、志貴さんと一緒に苦しんだりする事が、私の幸せなんです。
私を幸せにしたいと言ってくれるのでしたら、志貴さんと一緒に苦しんだり、悲しんだりさせて下さい。
それが、私の幸せですから…。」
暖かい笑顔で、琥珀さんが笑いかける。
それは、私にとって、多分幸せなんだろう…。
「…でも、琥珀さんは、それでいいの?」
琥珀さんが私と一緒に苦しんだりする必要はないと思う。
それを幸せと言うんだったら、それは苦しかったり、悲しかったりする訳がないから。
「もう、先ほども言いましたよ。
それが私の、一番の幸せなんですから。
でも、苦しいのや哀しいのは嫌ですよ?
それでも幸せだって言えるのは、志貴さんが好きだからです。
あー、でもやっぱり辛いのは嫌ですからねー。
私が辛いのは志貴さんも嫌なんですよね?
そうすると、志貴さんは嬉しかったり、楽しかったりしなくちゃいけません。
そうすれば、私も嬉しかったり、楽しかったりしますから。ね?」
…俺は、バカかもしれない。
ずっと、そんな風には考えてなかった。
「…参ったな、これじゃ琥珀さんの勝ちじゃないか。」
「えっ? なにがですか?」
「…そうだね、何も苦しかったり悲しかったりする事ばかりじゃない。
楽しかったり、嬉しかったりする事もあるんだ。
その時に、一緒にいてくれる人がいると、さらに嬉しくなったり、楽しくなったりする。
…その事に、気付いてなかったよ。
確かに、それは幸せだ。
一緒にいる事が幸せだって言うのは、そういう事を言うんだろうな。
だったら、私も楽しんだり、嬉しがったりしなくちゃいけないな。
苦しんだり悲しんだりするのは後回しで、今は、ただ楽しく過ごせばいいんだ。
それが、みんなの幸せになるんでしょ?」
そういって、私は琥珀さんに笑顔を向けた。
「…はいっ! もう、やっと気付いたんですね、志貴さん。
今までどれだけ人の事しか考えてなかったか、改めて分かりました。
志貴さんが傷付くと、私達も苦しいんですよ。
それが自分の所為なんだって思うと、もっと苦しいんです。
ですから、志貴さんは私達の幸せを願うなら、笑っていてください。
そうすれば、私達も笑って、幸せでいられますから。」
「…分かりました。かなり大変そうだけど、頑張るよ。」
「はい、志貴さんしか私達を幸せには出来ませんから、頑張ってくださいね。」
「うぅ…、責任重大だなー。」
「今更気付いても遅いです。約束しちゃいましたからねー。」
そう言い、二人で笑いながら歩いていく。
多分、この答えが一番合っているんだろう。
私は琥珀さんや、みんなが幸せだと幸せだった。
でもそれは、みんなもそうだったんだ。
それに気付くと、なんだか可笑しくなった。
いや、可笑しくなったんじゃないか。
なんだか、楽しくなったんだ。
それが、幸せの形だったから。
「そろそろ寮へ着いちゃいますねー。」
「そうだね、寮に帰ったらとりあえず秋葉達にもう大丈夫だって報告しないとね。」
「そうですね、みなさんにはご心配をおかけしているでしょうから。」
「お、もう寮が見えてきた、…って、あれは…。」
「あら…、なぜ、乾様がこんな所に…。」
寮の前を見ると、門の所にバイクに跨った有彦がいた。
他にもシエル先輩や弓塚、秋葉と翡翠もいる。
…なんか、すっごく嫌な予感がするんですけど。
「ただいま帰りました、秋葉さま。」
横を見ると琥珀さんがいない。
もう既に秋葉の側へいっていて、秋葉に声をかけていた。
「あら、琥珀。出かけていたのね、おかえりなさい。
…その分だと大丈夫そうね。」
「はい、もうすっかり。ご心配おかけしました。」
「あれ? 琥珀さんだよな。て事は琥珀さんも浅上に通ってるのか。」
「はい、そうですよー。乾様、お久しぶりですねー。」
「あー、そうだね。いやー、旅から帰ってくる途中で秋葉ちゃんは美人双子に会えるとは思ってなかったせ。」
「あら、乾君、私達はどうでもいいんですね。」
「そうだよ乾君、それって凄い失礼だと思うけど…。」
「いいっ!! 先輩、そんな訳ないじゃないですかー。まさか先輩もここに転校するなんて聞いてなかったからさ、びっくりしちゃってよー。
あ、弓塚は別にどうでもいいけどな。」
「うぅ…、乾君ひどい。」
「あぁ、お前にはいい思い出がないからな。文化財をバラして木刀にして買っちまえって俺達に吹き込んだのはお前だし。」
「わぁぁぁっ!! そ、それは二人だけの秘密でしょ!!」
「まぁ、もう時効だろ。それよりお前、遠野の行方知らないか?」
一瞬、場の空気が凍った。
「あっ、えと、その…。わ、私は知らないけど…。」
「…乾様、志貴様は遠野家所有の学院へと転校されました…。」
「いや、でもなぁ翡翠ちゃん。あいつが俺に黙っていきなり転校するなんて、よっぽどの事がない限り有り得ないんだって。」
さすが自称親友。伊達に親友を名乗っては居ない。
なにより、私は有彦には嘘はつきたくないし…。
「ですが、乾先輩、兄さんは…。」
「秋葉、もういいよ。」
「あっ、に、姉さん…。」
「えっ? 秋葉ちゃんに姉さんて…。」
みんなが驚いて振り向く、私は有彦に近づいて歩いていった。
「…遠野、どうしたんだ? それ。」
「お前、久しぶりに会って第一声がそれか。…まぁ、しょうがないんだろうけど。」
「まぁな。…それより、なんだそれは。」
「あぁ、見て判らないか?」
「まぁ、女になってるな。」
「そういう事だ。」
「なるほど、だから転校した訳か。」
「流石に鋭いなお前は。」
「まぁな、伊達にお前の親友を長年やってねぇよ。」
「そうだったな、親友。」
私と有彦はいつも通りに会話をする。
そんな様子をみんな信じられないという面持ちで眺めていた。
「まぁ、お前は驚かないと思ってたが、そこまで普通だと拍子抜けだ。」
「そうか? これでも一応驚いているつもりだがな。それよりも遠野。」
「ん? なんだ?」
「ちょっと、調べさせて貰っていいか?」
「まぁ、別にいいけど、あんま変な事するなよ…。」
「わーっはっはっ、大丈夫だ、淑女の味方の俺が、そんな事をする訳がない!!」
やけに自身満々に叫び、有彦は私の身体を右から、左から、上から眺める。
幸い今日はショートパンツなので、下から見られても安心だ。
「…遠野。」
「…なんだよ。」
「…触っていいか?」
そういって、私の胸を指差す。
「…あぁ、別に問題ない。」
「そうか、それじゃぁ失礼して。」
そういって、有彦は私の胸へと手を近づける。
指がクネクネとまるで変態が痴漢するように動いていた。
「はぁー、はぁー、はぁー」
…訂正、変態が痴漢しようとしていた。
「そんな風にさわんじゃねぇぇぇぇぇっ!!」
ゴキィッ!!
「ぶはぁぁっ!!」
思わず有彦の顎に下から突き上げるアッパーを決めた。
「ぐぅ、技のキレは鈍っていないようだな、悪友。」
「あぁ、おかげさまでな、外道。」
「…アレを受けて立ち上がる乾君も凄いですね。」
後ろではシエル先輩が有彦のタフさに関心していた。
「じゃぁ、触るぞ。」
「だから、普通に触れよ普通に。」
そういって、ポフッ、と私の胸に有彦の掌が触れた。
「むむっ…、ちいせぇな。」
「うるせぇよバカ。」
そう言って、有彦はムニュッと手を動かす。
「んっ………」
「なっ!!!」
私が出してしまった声を聴いて、有彦が後ろへズササッと下がる。
「…なんだよ。」
「遠野…、キモイ。」
瞬間、私は空へ舞った。
「てめぇがさわったんだろうがぁぁぁぁっ!!」
バキィィッ!!
「ぐぶばぁぁぁっ!!」
私のローリングソバットをモロに受けて、有彦が吹っ飛ぶ。
「ちっ、技のキレは以前より増してやがるな、ライヴァルめ。」
「お前のタフさも増してるな、腐れ外道。」
ゆっくりと有彦が立ち上がる。
「…あんなもの受けて立ち上がるなんて、化け物ですかあの方は…。」
「秋葉、あいつに常識なんてもんは通用しないんだ。例えあいつはお前が本気出しても死なないぞ。」
「…遠野君、乾君の事を報告したほうがいいですかね…。」
「…埋葬機関にスカウトされそうだからやめてください、先輩。」
アイツのタフさが並じゃない事はみんなの前で証明された。