「――――――はぁ」
この町に帰ってきて、一ヶ月。
この部屋で溜息をつくのは、もう数え切れない程。
溜息すると幸せが逃げちゃうぞ、なんて言われたけど。
それが現実になるとは、思ってもいなかった。
「――――――はぁ」
再び溜息をついても、幸せが逃げるだけ。
本当に、刻一刻と、溜息と共に幸せが逃げていく。
どうせ溜息をつかなくたって幸せは逃げていくけど。
それなら、逆に溜息をついたほうが迷信が本当になって良い。
「――――――はぁ」
溜息ついでに、窓に目を向ける。
開け放たれた窓からは、涼しげな風が運ばれるが、俺の幸せはそれでも逃げていく。
風の向こうには、透き通るほどの青空と、幸せそうに浮かぶ白い雲。
その空の色が妙に懐かしくて、心が沈む。
この空の色は。
あの日の空に、よく似ている気がするから――――。
あいつと出逢った頃の事なんて思い出せない。
いつの間にか、俺と一緒に居るのはいつもあいつだったから。
「――――って、聞いてる?」
「ん? 悪い、聞いてなかった」
社会人にもなって、まるで幼子に言い聞かせてくるような彼女の声。
どうにも、俺は彼女にとっては未だに昔のままなんだなぁと認識させられてしまう。
それはお互い様なんだろうけど。
初めて一緒に遊んだのは幼稚園の時。
小学校では班での登下校が義務付けられており。
思春期真っ只中の中学校でようやくお互いを意識し始めた頃、一年間だけ一人で帰宅していた。
その時の自分の葛藤を思い出すのは今でも恥かしいけど、何だかんだでまた二人に戻る事になる。
ついでに、まぁお互いの重要さだったり想いだったりをぶちまけたりもして。
高校に入ってそれなりの、大人の関係を持ってから、大学の四年間を同棲でスタートさせ、社会人と呼ばれる現在。
そんな関係がずっと続いてきた訳なんだけど。
「フランスって、遠いよねぇ」
「そうだなぁ。日本を中心に見ても地図の端だからな」
会社から海外出張の辞令が俺に言い渡された。
期限なんてものはなく。
ただ、会社の海外進出が成功するかどうかの重要なプロジェクト。
その一員に、社会人三年生の俺なんかが選ばれた。
それ自体はもの凄く嬉しく、自分の実力が認められたんだとはしゃぎもしたけど。
それと同時に、彼女と離れなければならないなんて事実に後で気付き、思い悩んだ。
プロジェクトが成功すれば、そのまま海外勤務の続行が決まり。
失敗してしまえば戻ってはくるが、待っているのは左遷だろう。
なにしろ、会社の今後がかかっている。
成功させる為につぎ込んだ資金が全てパー。
表向き「君達の所為じゃない」なんて上の人間は言うんだろうが、結局責任を取らされるのは目に見えている。
そんな状況なもんで、俺は彼女に「一緒に来てくれ」なんて言えなかった。
彼女もその事については何も言わず、笑顔で俺を送り出す。
ただ、それが少し寂しくて、嬉しかったのを覚えている。
空港の出発ロビーで、俺と一緒に派遣される、他の参加者が周りでは抱き合い、会話を交わし、涙ながらに別れを告げる。
中には妻子持ちの人も複数居り、夫であり父親である人と共に、出発ロビーを過ぎ去っていく。
そこには別れはなく、涙もない、笑顔での出国。
それが羨ましくて、少しだけ恨めしく思った。
「ね……大丈夫、だよね?」
「……あぁ。きっと大丈夫だろ?」
心配そうに俺を見つめる彼女に、苦笑を返す。
それが何だか可笑しくて、二人で笑いあった。
笑っていないと、彼女が泣いてしまうから。
「……戻ったら」
「えっ……?」
唐突に言った俺に、彼女は首を傾げて聞き返す。
「戻ったら、さ。その……」
「その……なに?」
あぁ、どうして判らない。
この状況で告げる事なんて、一つしかないのに。
沸騰しそうな頭で目一杯考えて、俺が出した結論。
それを唯伝えたくて、俺は口を開いた。
「きっと、いや絶対、戻ってくるから。……その時は、俺と一緒になって欲しい」
彼女の眼を見て。
ただ真っ直ぐに彼女を見て。
俺の結論を、彼女にぶつけた。
俺の言葉を噛み締めるように。
彼女は何度も何度も頷いてから、一言。
「…………待ってる、から」
飛行機から見た青空に、彼女の涙と、笑顔が添えられた。
海外に渡り、早速プロジェクトに取り掛かる。
長い時間をかけ調整を行い、四年を賭して、一応の成功を得る。
その間も彼女との連絡を取り合い、慣れない環境での苦労や仕事の忙しさに愚痴をもらし、彼女に慰めて貰う。
そんな生活は、こちらに来て二年で終わった。
二年が経つと、仕事は倍以上になって俺に圧し掛かってきた。
家庭を持つ人間が本社に戻り、一人身だった人間はフランスで仕事を行う。
今までの二年は研修期間だったかのように。
事実そうなのだろう。
プロジェクトを指揮していた上司が俺に言った事があった。
『この国で妻子を持ってしまったほうがいい』なんて。
まるで冗談みたいな事を真剣に言う妻子持ちの上司に、この時ばかりは怒りが沸いた。
冗談じゃない、俺は日本に約束がある。
そう言って突っぱねた俺を嘲笑うように、上司は日本に帰り、仕事は忙しさを増した。
一人身の俺達をこの国に拘束するかのように増えた仕事。
会社の意向が知れ、俺は辞令を承諾した時の自分を恨んだ。
自宅に帰れば精神、肉体共に疲れ果て眠る。
そんな状況で、日本と連絡が取れるのは仕事中だけ。
自然、彼女との連絡は途絶え、仕事の虫みたいになる。
けれど、そんな日々でも、一日たりとも忘れた事は無かった。
きっと帰るという、彼女との約束を。
仕事に追われる日々が五年も続いたある日。
本社からの辞令がフランスまで届いた。
フランスでの新規プロジェクトの立ち上げと、成功を収めたプロジェクトの現状報告。
波に乗ろうとする本社の意向は、すぐにこちら側に伝えられた。
代表として選ばれたのは俺と、他の四名。
二ヶ月の準備期間を与えられ、報告事項をまとめ上げると、すぐさま本国に戻った。
浮き足立った気持ちを荷物に慌しく詰めこんで。
帰ってきた時にまずしたのは、本社への報告だった。
刻々と移り変わる経済状況を考察し。
成果を収めたプロジェクトを練りこむ。
そんな日々が二週間も続き、やっと俺達に短いながらも休暇が与えられる。
宿泊していたホテルから、電車を乗り継ぎ実家へと帰る。
一時帰国の間、俺は実家に連絡を取り宿泊先の提供を取り付けた。
経費に関しては流石に会社は煩い。
暇の無かった俺達に与えられた休暇は、宿泊先への引越しも兼ねていた。
実家に戻り、暖かく迎えてくれた両親。
結婚し、たまに実家に遊びに来るという兄夫婦。
大学を卒業し、地元の司法書士事務所に転がり込んだ妹。
今年で大学を卒業するという、大手デパートに就職が決まり、今は彼女と同棲中の弟。
みんなが集まった実家は、フランス帰りの身体と心を優しく癒してくれた。
引越しを終えた翌日。
いよいよ、彼女と再会する機会を得た俺は、迷わず彼女の実家へ足を運んだ。
フランスに居る間に連絡が途切れ、帰国する事も伝えられなかった彼女。
慣れない土地で支えてくれ、心の拠り所になってくれていた彼女。
きっと、笑顔で向かえる再会になるだろう。
――――その時の俺は、そう信じて疑わなかった。
休暇が終わりとなるこの日。
やっと、彼女と俺は再会する事が出来た。
「……久しぶり、ね」
「あぁ。本当に……、久し振り、だな」
そこにある笑顔は、まるで仮面。
「ちょっと、外に出よう」
「えぇ……。その方が、いいと思う」
待ち合わせた喫茶店を出て、俺達は歩いた。
あの頃から何も変わらない、小さな公園へ。
「ここは……、何も変わらないな」
「そうね。きっと……これからも変わらない」
全体が見える場所へ立ち、景色を眺める。
学校帰りに買った物を二人で食べていたベンチも。
彼女が買って貰った人形を埋め、初めて彼女を泣かしてしまった砂場も。
勢いをつけすぎて、ジャンプを失敗して大怪我した俺を泣きながら心配してくれたブランコも。
何もかも、昔もままだった。
彼女はブランコに歩み寄り、腰かける。
時が経ち、小さくなってしまったそのブランコを揺らす彼女を、俺はじっと眺めていた。
「もう、あれから五年か」
「そっか……。もう、そんなに経つんだ」
不意に口から出た言葉に、彼女は笑顔で応える。
けれど、その笑顔は。
「五年は……、長いね」
「あぁ。長いな、五年は」
すっかり暗くなった空を見上げながら言う彼女に応える。
その、俺の笑顔も多分、苦笑なんだろう。
「……結婚、おめでとう」
仮面の笑顔で言った俺に、彼女もまた、仮面の笑顔を向ける。
「なんて応えれば……、いいのかな?」
本当に困ったと苦笑を浮べる彼女に、俺もまた苦笑する。
「ありがとう、でいいんじゃないのか?」
「ん……、そっか。ありがとう、か……」
どこか遠くを見る彼女の瞳に、俺は映っていなかった。
彼女の実家に行って、出迎えた彼女の両親に告げられた事実。
二年の交際を経て、彼女が結婚する事になった、と。
その時の彼女の両親の顔は、多分忘れられないだろう。
驚きと、戸惑い、不安、恐怖を浮べた二人。
二人の取り成しでお見合いをし、それから結婚する事になったという事実が彼らを脅えさせたのだろう。
『まさか、戻ってくるとは思わなかった』
『連絡も途絶えた相手を、待つ必要はないと言い聞かせた』
彼らはまるで懺悔をするように、俺に頭を下げてきた。
それは、間違っていると思った。
結局、責任は俺にある。
海外に行ったのも、連絡が取れなくなったのも。
彼女の両親を心配させ、彼女がお見合いを経て結婚する事になったのも。
彼女との約束が、もう果たされなくなった事も。
全てそれは、俺がどこかで間違えたのが悪い。
彼女の両親にそう告げて家を出て。
彼女から連絡が入ったのは、昨日。
今日までの三日間、彼女は何を考えたのだろう。
今の俺には、それしか考える事が無かった。
「貴方が、家に来たって両親から聞いて」
「……あぁ」
ゆっくりと、話し出した彼女。
俺には、相槌をするしか術は無い。
「帰ってきた、って聞いて。私、嬉しかった」
「そうか……」
嬉しかったと言う彼女に浮かぶのは、苦悩。
「それと……、多分、怖かった」
そこに見えるのは。
「貴方は、約束を忘れてなかったんだって」
後悔と。
「私の事、忘れてなかったんだって」
不安と。
「そう思っただけで、凄く嬉しくて……、凄く、怖かった」
罰を求める、罪人のような、危うい笑顔だった。
「……仕事の都合で、一時帰国する事になったんだ」
「そっか……」
こんな強がりで、彼女のその笑顔を止める事は出来ない。
それが判っていても、俺にはそれしか出来ない。
こんな結末を迎えたのは、俺自身の所為なんだから。
彼女が、そんな笑顔を浮べる理由は無いはずだから。
「だから、別にそういう訳じゃない」
「うん……、多分、そう言うと思った」
きっと、俺の顔は醜く歪んでいるだろう。
だがそれでも、俺は言葉を続ける。
「だから、俺は約束な――――」
「止めてよ」
俺の言葉を、彼女は強く拒絶する。
「止めてよ……、そんなの」
「…………」
「なんで……、なんでそんな事言うの?」
そう言った彼女の瞳は、何か縋るように俺を見つめる。
ブランコに座り、俺を見つめる彼女は、唇を震わせ、言葉を吐き出した。
「貴方がそんな事……、言う必要無いじゃない」
震える手を握り締め、吐き出す。
「約束を破ったのは、私なんだから」
力を入れすぎた手は、街灯の光を受け白く映る。
「なんで約束を守らなかったんだって、なんで待ってくれなかったんだって」
いつしか言葉に嗚咽が混じる。
「最低な女だって、そうやって、私を、罵ればいいじゃない!」
彼女から吐き出される言葉。
「寂しいからって、進められるままお見合いをして!」
その言葉は、酷く俺の心に響く。
「そのままお付き合いして、身体を重ねて!」
俺はまた、ここでも――――。
「尻の軽い女だって! そうやって、罵れば……」
「――んな事、出来る訳ないだろっ!」
間違えて、しまったみたいだった。
彼女が求めるのは、断罪。
自らを罰してくれる言葉を、彼女は欲しがっていた。
けど、そんな事―――。
「出来る訳、ないだろ。俺は、お前を好きなんだから……」
そう、俺に出来る訳が無かった。
瞳に涙を湛えながら。
震える両手で口元を隠し。
震える彼女に、俺が出来る事なんて。
自らの過ちを、懺悔する事しかなかった。
「あの時。俺が、一緒に来いって言えていれば……」
とりとめのない与太話。
”もし”なんて、自分を苦しめているだけにしか聴こえない。
「俺と一緒になって、フランスに行こうって、言えていれば……」
でも今は、言わずには居られない。
「そうすれば、俺も……」
この言葉が、俺の―――。
「……俺も、こんな思いする必要なんて無かったんだ」
――彼女に縋っていた、俺の罪を表してくれるから。
静まり返る、小さな公園。
付近の家からは、楽しげな、子供の笑い声。
その一つ一つが、俺の心を穿っていく。
もし、あの時連れて行けたなら。
もし、あの時の俺にもっと勇気があったなら。
もし、あの時そうしていれば。
今ここにあるのは、暖かい家庭と――――。
「……一緒に、行っていれば、良かった」
「あぁ……。そうしていれば、良かった」
全てを懐かしむように、夜空を見上げる。
都会の光に遮られながらも。
憎らしい程に、夜空には星が瞬いていた。
「……もう、帰るね」
「あぁ」
涙を拭い、嗚咽を止めた彼女は、ブランコを立ち上がる。
その背中を眺め、これで終わりだと、自分の心に蓋をする。
「送っていこうか」
「ううん。多分、そうすると、離れられなくなるから……」
そう言った彼女は、気弱な笑みを俺に向けてきた。
「そっか……」
「うん……。ごめんね」
「謝るなよ」
夜の帷が落ちている町並みを眺め、言い放つ。
「でも……、ごめんなさい」
「だから、謝るな。お前の所為じゃない」
公園の出口へ向かいながら、苦笑を浮べる。
本当に、どこで間違えてしまったんだろう、と。
「じゃぁ、ここで……」
「あぁ……」
別れ際になって、お互い向かい合う。
線の細い彼女の身体は、今でも小刻みに震えていた。
「それじゃあ……」
「あぁ……」
向かい合い、別れの言葉を。
「――さようなら」
「――さようなら」
そう言った彼女の泣き顔を。
別れた後でも、俺は忘れる事は出来ない。
その日の夜空は、本当に憎らしい程星が瞬いていた。
休日を消化した俺に会社から言い渡されたのは、フランスへの『帰国』。
新規プロジェクト立ち上げの先導が、俺の両肩に重りとして取り付けられてしまった。
恐らくこれから、日本に来る事はそう無くなってしまうだろう。
あの日の約束は、もう果たされないのだから――。
「――――はぁ」
荷物をまとめ上げた俺に出来るのは、溜息のみ。
あの日、飛行機から眺めた空に似た外の青空は、俺に現実を叩きつけてくれる。
今日は出国の日、フランスへの『帰国』の日。
そして――――。
「――結婚式、か」
彼女の、晴れやかな結婚式が行われている日だった。
「じゃあ、行ってくるから。――またな」
空港まで見送ると言っていた両親を止め、玄関口でタクシーに乗る。
玄関から涙を浮べて見送ってくる母親に苦笑しながら、俺は出発を促した。
空港へ直通する駅に向かう途中、信号待ちに引っかかる。
脇に見える、細い道の先には小さなチャペルがあった。
「――止めてください」
鐘の鳴るチャペルの前で、思わずタクシーを止める。
「すぐ戻りますから、少しだけ待っていて下さい」
タクシーを降り、それだけ言って、細い道を進む。
どうしようもない考えが、頭の中をぐるぐると回る。
タキシードを着た男性の横に、真っ白なウェディングドレスを着た女性。
階段の周りには、二人にライスシャワーと花吹雪を見舞う親族や、友達。
男性と手を取り合い、彼女はゆっくりと階段を降りていた。
まるで道幅が狭まるような幻覚に陥る。
彼女のその姿は、哀しいほど、綺麗だった。
細い道を抜け、階段の正面へ。
小さな鞄を抱えた俺は、場違いなスーツ姿を付近に晒していた。
決して近く無く、けれど遠くは無い距離。
道から出た俺が辺りの視線を受ける事は無かった。
足元を見て階段を降りる彼女。
その顔が、こちらを向く。
高い位置から辺りを眺めた彼女の視線は、離れた俺の前で止まった。
その顔に浮かぶのは、驚愕と、喜悦のないまぜになった笑顔。
彼女が俺を写したのを確認して、口を開く。
「――――おめでとう。幸せにな」
決して声としては届かない。
けれど、笑顔と想いは、きっと彼女に届いただろう。
飛行機が離陸に入り、大きな音を立て動き出す。
何度も味わった、ゆっくり腰が浮く感覚。
それが抜けた頃、空に視線を向ける。
眼下に広がる雲と、澄み渡る青空。
きっと、俺がこの地を訪れるのは、もはや数えるくらいしかないだろう。
なんとなく懐かしさを覚える外の景色。
ふと、手の甲に冷たい感触が広がった。
「――――ぁ」
ポタリ、ポタリと手の甲を打つ音。
まるで、雨露のように、俺の手の甲を叩く音。
その音に気付いた時。
俺は初めて。
自分が泣いている事に気が付いた。