どのような状況でも、人は想い、悩む。



それが、どれだけ幸せな状況でも。



それが、どれだけ不幸な状況でも。














―――――――嫉妬――――――















『じゃぁさ、明日。こないだ出来たショッピングモールでもいくか』

「うんっ、私一緒に行きたかったんだ」

隣町の都市開発により、大型駅が誕生し、それに合わせて駅前に大型百貨店やデパートが進出してきた北国。

都市開発は進み、若者で駅前は賑わう。

高層マンションが次々と建設され、人口密度も増えてきた頃。

少年と少女は、他愛も無いやり取りの中に居た。

『確かあそこ、アウトレット店があったよな』

「う〜、私に聞かれてもわからないよ〜。行った事ないもん」

『あぁ、それもそっか。まぁいいや。じゃ、明日10時に駅前でな』

自室で携帯を手にベットに寝転がりながら、カエルの人形を片手で抱き締め、彼女は会話を楽しむ。

頭の中では既に、明日への期待で一杯だった。

「うんっ。…じゃぁ、私もう寝るね」

最近の彼女の眠りは遅い。

それも、電話の相手である彼の所為だった。

だが、この場合はお陰と言ったほうがいいのかもしれない。

何せ、彼は朝起きると電話をかけ、毎朝彼女を起こしている。

そのお陰で、最近の彼女は遅刻も無くなり、朝から幸せな気分で登校する事が出来る。

『あぁ。じゃあ明日、10時な。寝坊なんかするなよ?』

「うぅ〜、ど、努力はするよ〜」

『ははっ。まぁ10時過ぎても来ない場合は電話するから、その時は覚悟しろよ?』

「う、うんっ。頑張って起きるよ」

『おう、その意気だ。…じゃ、おやすみ、名雪』

電話越しの声が、少しの寂しさを纏って彼女の名前を呼ぶ。

彼女もそれに答えるべく、彼の名前を呼んだ。


「うん、おやすみ。――――潤」
















「―――んっ…、ふぁ…」

むくりと起き上がり、手を天井へ伸ばす。

毎朝の恒例行事である、背伸びだった。

彼はこれをやらなければ気がすまない。

眠い目を擦り、ベットの上に置いてある目覚まし時計を見る。

時刻は午前7時。

カーテン越しに気持ちの良い日差しが差し込んでくる。

ふと、自身の隣でモゾ、と動く。

そこに目を向ければ、長く綺麗な黒髪。

ウェーブのかかった日差しを受けて黒く光る髪を、無意識に手に取り弄ぶ。

「ん……。ん、ぁ…、おはよう」

少しばかり身動ぎして、彼女は目を開けた。

今朝初めての光景は、淡い光を背中に受けた、彼の優しい笑顔。

「おはよう、香里。良く寝てたな」

「ん〜…。そう、かしら…?」

上半身を何気なくシーツで隠しながら、起き上がる。

素肌を隠したシーツは、彼女のほんの一部の魅力しか隠す事は出来なかった。

胸元の膨らみは、シーツに隠されて尚、素肌で見た時のように刺激的だった。

だが如何せん、彼女は寝起き。

髪の毛は何気にボサボサとしており、普段の全て整ったような彼女からは想像できない姿だった。

また、そんな普段とは違う彼女も魅力的に感じたのは言うまでも無い。

香里はベットの上に置いてある目覚ましに目を向ける。

先程から少し時間が経ち、時刻は7時を少し過ぎた10分。

「良かった、そんなに寝てないじゃない」

「だが、予定よりも大幅オーバーだ」

「予定って、6時半でしょ?いくらなんでもあの時間に寝てそれは無理よ」

いたずらっぽく笑う彼に、少し拗ねたように香里は言う。

それを聞いて、彼は一層笑みを深めた。

いたずらっぽい笑みから、何かを企んでいる笑みへと。

「だって、なぁ…。まさか香里が自分から泊まりに来るなんて思ってなかったから」

「そ、それは…」

その言葉を聴いて、香里はあえなく彼の思惑通りに動いてしまった。

頬を赤く染め、俯き加減で上目遣いに彼を見る。

その仕草が見たくて、彼はあんな台詞を吐いたのだった。

「一人暮らしじゃ、朝辛いだろうし…。料理出来ないでしょ?」

「まぁ、それはそうだがな。でも朝食だけだったら朝家に来てくれるだけでもいいんじゃないのか?」

彼は、更に何かを企てる。

「でも、泊まりに来たって事は…、だろ?」

そう言って、素肌が露になっている背中から香里を抱き締める。

首筋に鼻を当て、大きく吸い込む。

「ぁ…、ダメ、汗掻いたから…」

「ん?いい匂いしかしないぞ」

「んっ…もう、ダメよ。学校あるんだから」

この瞬間、彼の企みは敢無く失敗した。

「くっ…、嫌な現実に引き戻してくれるな、香里」

「ふふっ、私は別に嫌じゃないもの。勉強嫌いの誰かさんとは違うから」

そう言って、自分の肩越しに彼を見る。

彼の後頭部に手を置き、自身の顔へと近づける。

「ん……」

彼女の求めに応じ、彼は彼女の唇にそっと口付けをした。

そのまま、舌を差込み、彼女の舌の感触を楽しむ。

「ん…、ふぁ…」

ピチャピチャと水音を出しながらキスを数秒楽しみ、唇を離す。

「……おはよう、香里」

「えぇ。おはよう、相沢君」

本日二度目の挨拶を交わしてから、二人は離れた。

「ちょっとシャワー浴びてくるわ。覗かないでね?」

「それは、覗かれるのを期待しての発言と取っていいのか?」

ものは良いよう、捉え様とはよく言ったものだ。

祐一の物言いに、香里は額に指を当て答えた。

「言葉通りの意味よ」

「了解」

身体にシーツを巻きつけて部屋を出て行く香里の後姿に敬礼しながら答える。

「……しかし、本当に香里は可愛いんだな」

敷布団のシーツに残された、赤茶色の跡を眺めながら。

祐一は、昨夜自身で感じた事を、再確認した。











「ふむ…。香里、結婚してくれ」

「嫌よ」

香里は即答してから、味噌汁を啜る。

ダシ入り合わせ味噌という市販のものは本当に良く出来ている。

料亭で出すような味噌汁と比べるのは馬鹿のやる事。

一般家庭でここまで美味い味噌汁が作れるなら十分合格だろう。

そして、やはり味噌汁なら豆腐と長葱。

更にわかめも入っていれば尚良かったかもしれない。

自身で作った味噌汁を啜りながら、そんな事を考えていた。

ふと、対面の様子が気になり味噌汁から顔をあげる。

対面では、もしゃもしゃと寂しそうに厚焼き玉子とご飯を咀嚼する祐一が居た。

「即答はさ…。即答はないよな、即答は…」

今日は、いつもより少し楽しい一日になりそうだ。

対面で寂しそうにする彼を見つめながら、香里はそんな事を思った。












彼の部屋から出て、外を見る。

今は春から夏にかけての微妙な季節。

もうすぐ梅雨入りというニュースもあるが、北国では関係無い。

なにしろ、台風すらめったに来ないここでは、梅雨なんて季節事とは無縁だった。

「窓の鍵、締めた?」

くるりと振り返り、鍵をかけ終わり近づいてきた祐一に問い掛ける。

その際、小声で「チッ」なんて聴こえたのは気のせいだろう。

「あぁ。大丈夫なはずだ」

「はずって…。もう、しょうがないわね」

少し困ったフリをして、香里は微笑む。

「じゃ、早く行きましょう。栞が途中で待っているから」

「ん?そうなのか?」

「えぇ。たまには一緒に登校してくださいって、相沢君に」

香里はいたずらっぽく笑いながら、彼の前を歩いていく。

その笑みに一瞬気を抜かれてから、祐一は慌てて香里の横に並んだ。

「たまにと言わず、毎日一緒に登校してあげたら?二人っきりで」

「バッ、バカかっ!俺は栞とは別に…」

そんな事は、彼女自身よく知っている。

知っているからこんな発言が出たのだ。

彼は、変な所で純粋。

こういった切り替えしを自分がされるのには慣れていなかった。

あたふたと慌てだす彼は、香里が浮べていた自身がよくする笑みに気付かなかった。

やはり、今日はいつもより楽しくなりそうだ。

北国が作り出す透き通るような青空を見上げながら、彼女は再びそう思った。










「おはよう、相沢」

「おう、おはよう」

部活を終えた男子生徒の挨拶に律儀に返してから自分の机へへばりつく。

「朝っぱらから机にかじりつくのはやめなさい」

「だがな、香里、授業とは何の為にあると思う?学校とはなんぞや?そう、全ては睡眠時間の為に…」

「バカな事言ってないで、座ったら?」

何故か熱くなり椅子を蹴り倒しながら拳を握り演説を始めた祐一を、ピシャリと止める。

ついでに、冷ややかな視線も一緒に浴びせて。

「くっ…。香里にはわからん、それがわからんのですよっ!」

「そうね。私は勉強しに来てるから分からないわね」

整備士もかくやの台詞を吐いた代償は、冷たい対応だった。

しかし、この男はそんな事ではめげない。

「うぅ…、香里が冷たい。そうか、一度ヤッたらポイッ、か。俺はこんなに香里を愛しているのに…」

「ちょ、ちょっと!なんでそんな話になるのよっ!ていうかそんな事を学校で言わないでよっ!」

流石にこの台詞には香里も慌てだす。

なにしろここは教室、他の生徒も居るのだ。

祐一の発言で、教室に居る生徒の視線が一気に集まる。

「ヤッたのか?」だの「嘘ぉ、美坂さんが」とか聴こえるのはもはや疑いようのない事実。

そんなのも気にせず、祐一は言葉を続ける。

「ん〜?じゃぁどこでならいいんだね?香里クン」

わざとらしくクン付けで呼び、祐一はニヤリと笑う。

もしかしたら、今朝の仕返しなのかもしれない。

「どこで、とかじゃなくて!そんな話をするなって言ってるのよっ!!」

それにも気付かず、香里はますますヒートアップする。

実際、こういう話が香里は苦手だった。

とても、恥ずかしい。

自身のプライベートを他人に知られるという事に、香里は耐性が無かった。

香里の親友である彼女は、プライベートも何もどこでも曝け出す人間なので気にしないだろう。

だが、香里は彼女とは違うわけで。

「ふ〜、そうか。じゃぁ今日の放課後にでも、家に来て二人っきりでゆっくりと…」

「相沢君、いい加減に」

「おはよ〜」

「おいっす」

そろそろ鉄拳の一発でもお見舞いしてやろうかと思っていた所へ、場の雰囲気を根底から覆す人間がやって来た。

香里の長い付き合いの友達であり、祐一の従姉妹、水瀬名雪。

その彼氏で、高校へ入ってから知り合った、祐一の友達、北川潤。

二人の登場により、場の空気は一気に低下した。

その原因は、空気を熱くさせていた二名の沈下によるもの。

周りの人間がそれを感じているのにも構わず、二人は当然のように話し掛ける。

「おはよう。北川君、名雪」

「今日も遅刻はせずに済んだんだな、お前達」

「う〜、祐一。何か酷い事言ってない?」

「その通りだ」

いつからだろうか、このやり取りがぎこちなく感じられるようになったのは。

香里が二人を見ていつも感じる事だった。

名雪と祐一。

二人はただの従姉妹同士という関係では無かった。

祐一は名雪の初恋の相手であり、『元』彼氏。

名雪は祐一の愛した人で、『元』彼女。

そんな二人のやり取りは、どこかぎこちなかった。

一方的に、祐一のほうが。

「お、そうだ相沢。これ欲しがってただろ?やるよ」

「おっ?貢物か北川」

「そうでごぜぇます、お代官様」

「うむ、苦しゅうない」

突然漫才を始めながら、潤は祐一に差し出す。

それは、祐一が欲しがっていたシルバーのアクセがついたストラップ。

小振りなアクセが携帯の邪魔にならず、傷つけず人気のあるものだった。

「むっ!これどこで見つけたんだ?お前」

「昨日、隣町のショッピングモールで見つけたんだ。俺も同じの買ったから、1個やろうかと思ってな」

「へぇ。サンキュ、大事に使わせて貰うよ」

「ま、気にするな。いつもの事だ」

潤から渡されたストラップを、ポケットから取り出したストラップに早速つける。

「えへへ、私も買ったんだ〜。ストラップ」

名雪はその作業を横目で見ながら自分の携帯を差し出す。

そこについていたのは、名雪の好きなカエルのキーホルダーがついたストラップ。

「また、けろぴー?飽きないわね、本当に」

「だって、けろぴーだもん。可愛いよ〜」

「前々から思ってたが、そのカエルって風邪薬のCMで出てくるカエルに似てないか?」

「う〜、潤。なんか酷い事言ってる?」

「言ってない言ってない」

二人のやり取りを聴いていると、どこか胸が痛む。

人として直視したくない感情を、祐一は閉じ込めておく。

この痛みは、自分だけで処理すればいい事。

二人は関係無い。

そう思い込むことで、祐一は自身の感情を押さえる事にしていた。










「お昼休みだよっ!」

「何ぃっ!もうそんな時間かっ!」

がばっと起き上がり、顔を上げる。

「リアクション、でかすぎるわよ…」

なんだかんだで変わっていない二人のやり取りに、香里はこの少しおかしい関係を忘れてしまいそうになる。









「あっ、ごめん。二人とも、先教室に帰っててもらえる?」

学食で昼食を過ごした後、名雪が香里の手を掴んで男二人に言った。

「あぁ…、別にいいけど。な?北川」

「何故そこで俺に振る」

「なんとなくだ」

「じゃ、二人ともまた後でね」

「ちょ、ちょっと名雪。何の用よ…」

二人の去っていく背中を見送って、香里が名雪に問い掛ける。

名雪はいつも通りの笑みを浮かべ、香里の耳元でそっと囁いた。

「女の子同士の、秘密の話だよ…」









「ねぇ、香里」

「なに?」

裏庭に二人で入り、ベンチに座る。

辺りには余り人も居ない、秘密の話とやらをするには絶好の場所だった。

「祐一と、寝たでしょ?」

「っ!?」

いつも通りの笑顔、いつも通りのペースで、名雪は言ってのけた。

当然、発言に香里は驚く。

その様を見て、名雪は一人納得した。

「そっか。寝たんだ」

「…な、なんでそんな事訊くのよ」

「だって、香里の制服。祐一の匂いがしたから」

「そう…」

平然と言ってのける名雪に、香里は圧倒されていた。

余りにも、名雪がいつも通りすぎて。

「ねっ。祐一、巧かったでしょ?」

「っ!?な、なんでそんな事言わなくちゃいけないのよっ!」

「う〜ん、なんとなく、かな?」

「なんとなくって…」

本当に考えて発言したんだろうか。

目の前の人間の発言が疑わしく感じられた。

「それで、どうだった?気持ちよかった?香里、初めてだったんでしょ?」

名雪は本当に嬉しそうに香里に話し掛ける。

だが、その内容の過激さに、香里は答える事は出来ない。

「べ、別にどうでもいいでしょ?そんな事…」

「う〜、けち」

「けちじゃないのっ!大体、なんで名雪に言わないといけないのよ。名雪は相沢君の…」

「判ってるよ。ちゃんと」

名雪のあっさりとした返答に、香里は二の句が告げられない。

「私は祐一の元彼女。祐一を振った彼女。それぐらい、判ってるよ」

「あ、わ、私は別にそんな事が言いたいんじゃなくて…」

余りの言い方に、香里がフォローに回る。

名雪はそれに、笑顔を返した。

「冗談だよ、香里」

「……もう、そんな冗談やめてよね」

「でも、本当の事でしょ?」

「それでもっ!」

香里が感情を込めて言うと、名雪は微笑んで立ち上がった。

「なんか話ズレちゃったし、教室もどろっ。香里が教えてくれるならまだここに居るけど」

「選ぶまでも無く、教室に戻るわよ」

「う〜、香里のけちんぼ」

「けちじゃないって…」

香里はそう答えながら、名雪の前を歩いていく。

今日はちょっと問題があったけど、それでも楽しい一日になりそうだ。

背後で渦巻く感情を感じ取る事が出来ず、香里は再び青空を見上げてそう思った。

名雪は、普段通りの笑顔で、自身に蠢く黒い感情を誤魔化していた。










自宅に帰り、制服をハンガーにかけて着替える。

時刻は夜の7時。

放課後になり、名雪達と別れた後、香里と二人で買い物に出た。

学校帰りのウィンドウショッピングを楽しみ、百花屋でコーヒーを飲んで楽しく過ごした。

香里を自宅に送った時、家の前でキスをしているのを栞に見られたのはちょっとしたハプニングだった。

『えぅ〜っ!見せつけるようにこんな場所でキスをする二人なんて、嫌いですっ!』

玄関先でそんなでかい声出すなと、何度言ったことだろうか。

あの時の騒動を思い出し、くすっと一人笑う。

ふと、現在の時刻を確認する。

携帯の液晶に浮かぶのは、PM7:15の表示。

「飯でも、買ってくるかねぇ〜」

昨夜は香里が居た事もあり、暖かい食事が出来た。

今日はコンビニの弁当か、カップラーメン。

一人暮らしの侘しさを痛感しながら、身を起こして上着を羽織った。

ピーンポーン

そこへ、来客を告げる音が響いた。

そこで思い浮かべるのは、二人。

昨日来てくれた香里か、相変わらずお世話になっている水瀬名雪の母、自分の叔母である秋子さん。

どちらにしても、今日も暖かい食事が食べられそうだ。

「あーいっ、今いきまーす」

上着を羽織ったままキッチンを抜け、部屋の扉を開いた。

「あれ?祐一、どこか出かけるの?」

そこに居たのは、予想していなかった人間。

「はっ?…いや、別に出かけないが」

「そっか。じゃぁ丁度良かったね」

「…いや、何が?」

玄関をスルリと潜り抜けていく姿を目で追いながら、祐一は問う。

「え?何って、ご飯だよ。お母さんに頼まれたんだ」

そう言いながら買い物袋をカサリと鳴らす、従姉妹の姿に祐一はただ呆然としていた。





確かに予想はしていなかった。

だが、来る可能性がないわけでもない。

名雪の言う通り、秋子さんが頼めば、名雪は考えるだろう。

名雪の料理の腕は秋子さん仕込みという事もあり、確かだ。

だが、何故こいつはそれを了承したんだろうか?

キッチンで楽しそうに料理をする名雪の背中を見て、祐一は一人考えていた。

今までも、時々この部屋にやって来た事はあった。

でも、必ずその時は香里や北川、秋子さんが一緒の時のみ。

名雪一人でやって来るなんて事、今までは無かった。

「なぁ……、名雪」

「えっ?なに〜?」

鼻歌を止め、声をかけてきた背後の人間に名雪は顔を向ける。

後は焼くだけの簡単な肉料理。

多少話をしてもさして支障は無かった。

笑顔で振り返る名雪に、祐一は流石に動揺する。

名雪は、香里に負けず劣らず可愛い。

ただでさえそれなのに、二人は元だが恋人同士。

意識するなと言うのは無理な相談だ。

「いや…。なんでお前、来たんだ?」

「え?お母さんが来るつもりだったんだけど、仕事で少し遅くなるから代わりにって」

「へぇ、そうなのか」

「うん。お母さん今日遅くなるから、ついでに私も一緒に食べていくからね」

そういう事か、と納得した。

秋子さんの仕事が遅くなるなんて稀な事だろうが、それも無い訳ではない。

ついでに食べると言うのも、特に不自然ではない。

秋子さんが居ないのだ、どちらにしろ名雪が自分の食事を作る事になる。

だったら、と考えたんだろう。

優しいのは相変わらずだから。

フライパンを器用に動かす名雪を見て、思わず祐一の顔は綻んでいた。







名雪の食事は、相変わらず美味かった。

記憶の中にある、少しあっさり目の味付け。

祐一の思考は、否が応にも過去の事を思い起こしてしまう。

名雪の一挙手一投足が、全く変わりなくて。

「ふふっ、おいしそうに食べてくれたね、祐一」

「ん…、まぁな。さすが秋子さん仕込みなだけはある」

1DKの部屋の中で、テレビを見ながら名雪と話をする。

食後すぐ名雪は見たいテレビがあるからと、とっととテレビをつけて鑑賞を始めた。

食事が終わった後の満足感を楽しみたかった祐一としても、名雪を家に送る時間までこの充実感を楽しみたかった事もあり、何も文句は言わない。

それに、久し振りの従姉妹が一緒に居る空間。

これを楽しみたかったと言うのも本音だった。

テレビでは先程までやっていたバラエティー番組が終わり、ドラマが始まった。

トレンディードラマと呼ばれる恋愛をベースにしたドラマ。

俗に言う『よくある話』というやつだ。

もっとも、よくあるのはテレビの中だけの事。

現実にそんな波乱万丈な話の主演にされても嬉しくないだろう。

どこか間違えたドラマの見方をしている祐一は、そのドラマが放映する時間帯に気付いた。

時刻は既に九時を過ぎていた、30分も。

「うわっ!お、おい名雪っ!お前もう九時半過ぎてるじゃねぇかよ!」

「えっ?あ、本当だ〜」

よくあるやけに長いキスシーンを見ながら、名雪はのんびりと答える。

何故ドラマのキスシーンてのは、舌を絡めるような濃厚なやつじゃないのに長いんだろうなぁ。

なんて間抜けな事を考えている場合じゃない。

気を取り直し、祐一は名雪に話し掛ける。

「ほら、名雪。早く帰らないと秋子さんが心配するだろ?」

「う〜、でもでも、これからが面白くなるんだよ〜」

「でもじゃない!秋子さんが心配するだろ!?」

「う〜、大丈夫だよ。携帯に電話もかかってきてないし」

「そうだけど、そうじゃなくって!電話がかけずらいかもしれないだろ?」

「実の娘なのに電話がかけずらいような仲悪い親子じゃないもん」

「それもそうだが…、で、でも早く帰ったほうがいいだろ?ほら、明日も学校だし」

「う〜、そうだけど〜」

「そうだ、だからほれ、さっさと立った立った」

グイ、と名雪の腕を掴んで名雪を引っ張りあげる。

「ちょ、ちょっと!きゃぁっ!」

「うおっ、ちょ、おぉっ!」

無理矢理引っ張り起こされた勢いで、名雪の身体は傾き、体重を祐一に預ける事になった。

だが祐一も不測の事態により身体を支えきれず、後ろに倒れてしまう。

ボスッ

結果、背中を背後に置いていたベットに預ける事になってしまった。

「えっ…、あっ?」

テレビからは音しか伺う事しか出来ないが、どうやらキスの女とは別の女が男に告白しているシーンのようだ。

なんて現実逃避。

胸元に名雪を抱いてベットに寝転がっているなんて、余り認めたくない現実だった。

実際、心臓は早鐘を打ち、身体は熱くなってくる。

名雪からの香りが鼻腔を擽り、嫌でも過去の情事を思い出させる。

これはもうお手上げ。

名雪から離れてくれるのを待つしかない。

自分からは、離したくないから。

「……祐一」

不意に、名雪が声を挙げる。

その声に、祐一は何かを感じた。

「いや、名雪…」

離してくれ、とは言えなかった。

腰に手が回され、名雪から抱き締められれば。

「祐一……」

「な、名雪…?」

久し振りに聞く、名雪の猫撫で声に背筋がゾクリとする。

「今日、香里に聞いたの。祐一、香里と…」

その言葉に、名雪が何を言おうとしているかが、判ってしまった。

それは、現状をぶち壊す、だけどとても甘い言葉。

「私、なんでだろうね。凄く、哀しかったの…」

「な、名雪…」

自分を抱き締める力が強まるのを感じ、何かが胸に込み上げてくる。

「自分から振っといて、勝手だよね、私…」

「………」

段々と細く、弱くなっていく名雪の声に、祐一は言葉を出せない。

胸元に伝わる、湿った感触の所為もあるだろう。

「祐一と別れた時、これで良いって思ったんだ」

「名雪」

「でも、でもね。香里から聞いて、判っちゃったんだ。私…」

「名雪、辞めろ」

「私、私ね」

「辞めろ…、名雪」

言葉とは裏腹に、期待している自分が居る。

自己嫌悪に陥りながら、祐一の止める言葉は弱まる。

名雪は祐一の胸元から顔を上げ、微笑む。


「私…、祐一じゃないと、ダメみたいなんだよ」


その涙に濡れた笑顔は、とても綺麗だと思った。










湯上りの牛乳を飲み、栞と玄関先での騒動をぶり返してから、香里は自室に戻った。

「ほんとに…。栞もしつこいんだから」

内容とは逆に、香里は笑顔そのもの。

それも、今日がとても楽しい日だったから。

何かが変わり、新しくなった気分。

今日という日の感想を求められれば、香里はそう答えるだろう。

「そう…、楽しかった」

再確認するように呟く。

そのままボスンとベットに飛び込み、毛布を抱き締める。

スーッ

鼻で吸った毛布の香りは、やはり彼の部屋のものとは違った。

「相沢君…」

そう呟くだけで、昨夜の事が思い出される。

とても甘い記憶。

彼が愛して、自分も彼を愛した夜。

「ふふっ。相沢君、か。私もまさか、ね…」

自然と微笑む声が出てくる。

まさか、自分も恋をするとは思わなかった。

初めは同情に似た感情しか彼には持っていなかった。

親友との別離。

その時の彼は、普段通りに振舞おうと努力していた。

だが、逆にそれが見ている自分を悲しくさせた。

だから、だろうか。

彼を支えたくなってしまったのか。

名雪が北川と付き合うようになった時、それでも彼は二人を祝福した。

自分の辛さは内に隠して。

そんな彼を見ていたら、自分の胸も苦しくなる。

彼が辛いと、自分も辛い。

だから、彼を支えたかった。

それを恋と言うなら、その時既に香里は祐一に恋していた。

そして、昨夜の出来事。

香里の中は、幸せで一杯だった。

彼と一緒に居られれば、これからも幸せなんだろう。

「ふふっ。どうしようかしら、ね」

どう頑張っても笑顔しか浮かばない自分の顔を触りながら。

明日はどんな楽しい一日になるんだろうと、まるで子供のように考えていた。


















「私ね、不安だったんだと思う。…祐一の事、信じきっている自分の事が」

胸元に手を這わせながら、名雪が語りかける。

「今だから、判るんだと思う。私は祐一を信じきってる。信じて、信じて、何をされても信じていく」

指先に触れる小さな突起に口付けして、名雪は顔を上げる。

「だから、かな?そんな自分が不安になっちゃったんだ。祐一が居なくなったら、私どうなるんだろう、って」

「それで…?」

肌に触れる名雪の髪の感触を楽しみ、頭を撫でながら問い掛ける。

「だから…、自分から離れてみたんだと思う。それで、他の人と付き合って、それで…」

「……何で、北川だったんだ?」

祐一の質問に、名雪は少しばかり困った表情を浮べる。

「私、男の子の友達少ないし…。それに、北川君なら信用できるから、かな」

「そう言えば、俺より北川とは付き合い長いんだよな、お前達…」

「うん。だから、だと思う。他に仲の良い男の子が居たら、また違ったかもしれない」

「……北川の事、好きなんじゃないのか?」

「うん、好きだよ。…でも、祐一のほうが好き」

「でも、俺は…」

そこまで言って、口を塞がれる。

「んっ…、ぷ、ふぁ…」

クチュクチュと音を立てて、お互いの舌を貪りあう。

やがてどちらともなく唇を離し、名雪が微笑みかける。

「判ってる。でも…、今だけでもいいから、私を見て?」

「名雪…」

「私は、ずっとずっと、祐一の事が好き。昔も、今も変わらない。何があっても変わらない。だから、私の事を、見て…」

「な、ゆき…」

訴えは心に響き、身体全体を震わせる。

差し伸べた手で名雪を求め、祐一は名前を呼ぶ。

名雪は求めに答え、祐一の手と言葉に酔う。


そして二人は、お互いを求め合った。














「おはよう、香里」

「おっす、美坂」

背後からかけられた声にくるりと振り返る。

「あら、今日も遅刻じゃないのね」

「う〜、香里。酷い事言ってる?」

「言葉通りよ」

早速唸ってくる名雪を放っておき、香里は学校へと進んでいく。

「も〜、香里酷いよっ!」

「きゃっ!ちょっと名雪!」

後ろからガバッと抱き付いてくる名雪に、思わず悲鳴をあげる。

「おぉっ!美女二人の百合かっ!百合なのかっ!」

「北川君、カバンぶつけるわよ」

「潤、ヘンタイさんだね」

「ぐふぁっ!そりゃ酷いんじゃないか二人とも〜」

北川が大きなリアクションで苦しむ中、香里はどこかでする甘い香りを嗅いだ。

それは、自分の蜜月の夜を象徴する香りに、どこか似ていた。

「ん?香里、どうしたの?」

「え?いえ…、なんでもないわ」

「へんな香里…」

「へ、変ってアンタね…」

「わっ、香里が怒った〜」

「名雪!今の美坂は危険だ!離れろ!」

「あんた達ねぇ〜!」

「きゃ〜、香里が怖い〜」

「走って逃げるぞ!名雪!」

「走るの好きだよ、私」

甘い香りもどこへやら。

何故か知らないけれど慌しく登校するハメになった。

それでもどこか楽しいのは、きっと学校で逢える彼のお陰。

「もう、課題教えてあげないわよ」

「ご、ごめん香里〜!許して〜」

「美坂っ!俺が悪かった!見捨てないでくれ!」

「じゃ、今日の学食は二人の奢りね」

「う、う〜。今月のお小遣いぴんち」

「安心しろ、二人で仲良く香里の分も折半だ」

「うん、そうしようね」

「はいはい。イチャイチャするのはかまわないけど、見せ付けないでね」

自然に笑顔を浮べる自分を意識しながら、また逢える彼の事を思い、香里は校門を入った。













「なぁ、相沢どうしたんだ?」

「……どうしたのかしらね」

昼休みになっても、祐一は登校してこなかった。

実際、何かあったなら香里に連絡が来ると思っていた。

だが、それも今まで全く無い。

こちらから連絡をしても、呼び出し音が鳴るだけ。

留守番電話にも切り替わらないので声を残す事もできない。

メールを送っても返信が無い。

香里の不安は、休み時間が訪れる度に募っていった。

もしかしたら、事故にでも巻き込まれたのだろうか?

幸い、そのような連絡は学校には来ていない。

登校途中であれば、どんな事故であれ制服で判る筈だ。

じゃぁ、もしかしたら風邪でも引いて来れないのでは。

それは有り得る。

熱でも出ていた時には、電話に出るのも億劫だろう。

一人暮らしの祐一を考えると、この線が一番濃厚かと思われる。

「風邪でも、引いたのかしらね…」

「なるほど。熱でも出て連絡するのも億劫なのかな」

北川も香里と同じ結論に至っていた。

それだけ、相沢祐一と言う人間は面倒くさがりな面があると認識されているのだった。

「そうなると、こちらから電話しても出ないわね」

「あぁ。帰りに家に寄ってみてやれば?」

「言われなくてもそうするわよ」

「そうか。あいつ喜ぶんじゃないか?心配して来てくれたって」

「そう、ね…」

そこで、ふと気付いた。

こういう時、親族のほうに連絡が行く場合もあるのではないか。

そう思い、今まで会話に入って来なかった親友に声をかける。

「ねぇ、名雪。貴女秋子さんから…」

そこまで言って、やめた。

「くー」

名雪は寝ていたから。

「…多分、連絡行ってないと思うぞ。行ってたら名雪から美坂に言うはずだろ」

「それもそうねぇ…」

二人して、どこか呆れながら名雪を見て話した。

「くー」













ピリリリリッ

放課後、予定通りに祐一の家へ向かう途中、香里の携帯が鳴った。

恐らく、今まで連絡の取れなかった祐一から。

「全く…、今頃連絡してくるなんて」

喜びを誤魔化すように言いながら、誤魔化しきれない笑顔を浮べて香里は通話ボタンを押した。

「もしもし、相沢君?」

『……香里、か?』

返って来た声に、驚いた。

風邪とか、そんな事ではない。

どこか苦しんでいる、本当に辛い状況でしか聞けないような声だった。

「どっ、どうしたのよ相沢君っ!?」

思わず声を張り上げる。

だが、電話の向こう側に居る祐一からは、それに答えるだけの覇気は無かった。

『…今、公園に居るんだ。来れないか?』

「公園?公園に居るのね?」

『あぁ…。話が、あるんだ…』

その言葉に、胸を不安が締め付ける。

突然訪れた目の前の不安に、大声を出したくなるのを我慢して、香里は言った。

「……わかったわ、すぐに行くから待ってて」

『あぁ…。頼む』

電話を切り、駆け出す。

不安に押しつぶされないよう、胸を押さえながら。














「相沢、君…?」

「……悪いな、呼び出して」

公園で会ったのは、昨日とは明らかに違う少年だった。

とにかく、元気が無いとかの問題ではない。

覇気が、全く無いのだ。

祐一は今にも消えてしまいそうな、そんな印象を香里に与えた。

「…どうしたのよ、こんな所に居て」

「……話を、聞いてくれるか?」

香里の問いかけに答えず、祐一は話を聞くよう促す。

とりあえず、言いたい事は話を聞いてから。

大丈夫、何も不安に思う事はない。

誤魔化し切れない不安を胸に押さえつけながら、香里は話を聞く事にした。


「……昨日、名雪を抱いた」


「………え?」

余りにも簡潔な言葉に、どこか遠くで間抜けな返事だと思う自分が居た。

「昨日、名雪が飯を作りに来たんだ。それで、帰る頃になって、名雪から告白されて、それで…」

「ちょ、ちょっと待って!お願い、ちょっと待って!」

事態についていけない香里が、大声で語りつづける祐一を止める。

祐一の言葉が止まったのを確認してから、香里は一度深呼吸した。

…よし、考えましょう。

まず、相沢君はなんて言った?

抱いたって言っていた。

誰を?

名雪を

何故?

告白されたって

誰に?

名雪に

だから、何故?

何故、名雪が相沢君に告白するの?

二人はもう、別れたはず。

それで、全て終わったはず。

そこまで考えて、今朝を思い出した。

どこからか香ってきた、香里の蜜月の夜を象徴する匂い。

それは、どこからだろうか?

あの時、香里は名雪に後ろから抱き締められていた。


―――――あぁ、なんで気付かなかったんだろう。


名雪はあんなに、自分にアピールしてきていたのに。

『祐一に抱かれたんだよ』って、わざわざシャワーも浴びずにアピールしてきたのに。

何故、気付けなかったんだろう。

悔しくて、唇を噛み締める。

目には次第に涙が溜まりだしていた。

「香里……」

「…ごめんなさい、なんでもないわ」

目に溜まった涙を拭い、香里は祐一に微笑みかける。

「ねぇ、相沢君。…私の事、好き?」

突然の質問に、祐一は驚く。

自分は香里に、名雪を抱いたと言った。

今の彼女に、元の彼女を抱いたと言った。

罵られると思っていたのに、ましてやそんな事訊かれるとは考えもしていなかった。

だから、祐一は正直に答えた。

「あぁ、好きだ。…でも、俺は」

「続きは言わないでっ!」

香里の声に、言葉を止める。

「判ってる、判ってるの。相沢君の何処かに、まだ名雪が居るのは…」

「香里…」

「でも、私は相沢君が好きなの。それだけじゃ、だめかしら…」

「だけど、俺は…」

「名雪の事も好き、なの?」

香里の言葉に一瞬言いよどんで、だが口に出した。

「…あぁ、そうだ」

ここで自分の、名雪に対する感情を全てぶちまけてやろうか。

香里は真剣に考えて、だが止めた。

そんな事をしても、祐一が苦しむだけなのは明白だった。

ふぅ、と一つ息を吐いて、口を開く。

「そう…。じゃぁ、別れましょう、私達」

「……あぁ、そのつもりだった」

祐一はそう言って、座っていたベンチから腰を上げる。

「ごめん、香里。俺が馬鹿で、どうしようもないから…」

「やめて。そんな事されても嬉しくないわ」

頭を下げようとする祐一を、香里は止める。

気丈に、涙を見せないようにしながら。

「相沢君は、悪くない。悪いのは…」

そこまで言って、歯を食い縛る。

今ここで、そんな事言う必要は無い。

それは、後でいいんだ。

ふっと力を抜いて、髪を掻き揚げる。

「相沢君。私、貴方の事、好きよ。別れても、ずっと好きで居続けるわ」

香里から出た言葉は、奇しくも彼女が今憎悪している、祐一を苦しめている少女と同様の言葉だった。

祐一はその言葉を胸を抉られる思いで受け止め、返事を返す。

「……ありがとう。俺も、お前の事、好きだ」

だったらどうして!

そう叫びたいのを、必死で堪える。

判っている、祐一はこういう人間だ。

自分の中で、けじめを着けなければ相手を傷つけるだけ。

そう考える、優しい人間だ。

それが判っているから、余計悔しい。

それを知っていて、尚その優しさを利用したんだ、あの女は。

次から次へと湧き上がる憎悪を見せず、彼の背中を見つめる。







「……また明日、学校で逢いましょう」

「…あぁ」

「ご飯、ちゃんと食べてね」

「…判ってる」

「風邪とか、引かないでね」

「……大丈夫だ」

「それから…。私が好きだって事、絶対に忘れないで」

「忘れるもんか」

「……また、明日」

「…お休み、香里」







堪える事が出来た。

消えていった彼の背中を確め、香里の感情の波はとうとう堰を切った。




「うっ…、うぅ、うわあああああああああああああっ!!!」




感情のまま、泣き叫ぶ。

自分の顔を掌で抑えて、ただ感情に従うまま、泣き叫ぶ。

後にはまだ、やる事があるから。

哀しみを吐き出して、憎しみは心に留めておく。

そうしなければ、耐えられないから。

だから――今はただ、哀しみを吐き出していた。









月の照らす公園。

夜の帷も降りて、元々人の少ない公園に、二人だけとなった。

「こんばんは、名雪」

「こんばんは、香里」

制服のままの香里を見て、名雪は何があったかを注し図る。

恐らく、別れを切り出されたのだろう。

その時の光景が、なんとなくだが浮かんだ。

「…何で呼ばれたのか、判ってるわよね?」

浮かんだ光景を打ち消したのは、その主演、自分の元親友だった美坂香里。

「うん。なんとなく、だけどね」

睨み付ける香里の台詞に飄々と答える。

「……よく、そんなぬけぬけと言えるわね」

「判るよ。そんな香里の顔を見れば」

そう、まるで汚物を見るような瞳。

その瞳の中に、薄暗い憎悪の光が燈っているのも、名雪は良く理解していた。

自分も同じ事をされたら同じ瞳をするから。

実際、裏庭で名雪は同様の光を燈していた。

全く見当違いだと思われる、憎悪。

だが、名雪にとってはそれは当然の事だった。

「なんで、相沢君と寝たの?」

「……何言ってるの?香里。好きだからだよ」

何をこの状況で?

本気で名雪は考え、前半の言葉が出た。

「貴女、北川君はどうしたのよ。好きなんじゃないの?」

香里は至極、当然の事を口にする。

少なくとも、つい最近まで彼女は名雪の自他共に認める親友だった。

だから、少なくとも彼女が適当な考えで北川と付き合うなんて事は無い、と思っている。

そしてそれは、正解だった。

ただ、少し予想だにしない答えだったが。

「うん、潤は好きだよ、優しいし。でも私、祐一のほうが好きだから。だからさっき、別れてきたんだ」

さすがにこれには驚いた。

余りにも、行動が予想を上回りすぎる。

「な、なんて言って別れたのよ、貴女。…まさか」

自分でも見当違いな質問をしていると途中まで思っていたが、よくよく考えてみるとその質問は正解だった。

「うん、祐一が好きだからって。昨日、祐一に抱いて貰ったからって言って、別れてきた」

こんな答えが、返ってきたのだから。

「う、嘘でしょ、貴女…。いくらなんでも、そんな…」

余りにも常軌を逸し過ぎている。

そんな事をしたら、名雪と北川どころか、祐一と北川の仲すら崩壊してしまう。

信じられない行動を取る自分の目の前の少女は、自分を信じられないものを見たような目で見つめてきた。

「何、言ってるの?香里。こんな状況で嘘つくわけないよ」

「……し、信じらんない。貴女の常識を疑うわ。そんな事言う必要ないじゃない!」

思わず声を張り上げた香里に、名雪は微笑みかける。

「必要、あるよ?だってそうしないと、祐一は私だけを見てくれないよ」

「……は?何を、言ってるのよ、貴女」

当然の事のように言う名雪に、香里は思考を停止させる。

常識外れもいい所、もしかしたらこの女は狂っている。

香里の中では、それだけが頭の中でリフレインしていた。

呆然とする香里を見て、名雪はクスッと笑ってくるりと回った。



「……私ね、憧れてたんだ。恋愛に」

「…突然、何の話よ」

停止していた思考を再び活動させ、香里は返事を返す。

香里の質問には答えず、名雪が月を見上げて微笑んだ。

「私は、ずっと祐一が好きで、この町に祐一が来てからもずっと好きなの」

それは、知っている。

昔、見ず知らずの従姉妹の話をまるで恋する乙女のようにする名雪を見て、まだ見ぬ従姉妹に対して軽い嫉妬を覚えたほどだ。

「それで、祐一とお互い激しい恋に落ちる。そういうのに憧れてた」

そう言って、名雪は香里を見て微笑む。

「でも、実際は違ったの。祐一との関係は、本当に楽しくて、幸せだった。でも、どこか違ったんだよ」

そう言って、名雪は一歩近づく。

「だからね、一度別れてみたの。それで、北川君と付き合ったの」

『潤』と呼んでいた彼女はもう居なかった。

それは、彼女がその事を過去の1ページにしたのだという事実。

「でも、それでも祐一の事が好きだったんだ。もちろん北川君も好きだったよ?でも、彼じゃダメだったんだ」

名雪は一歩近づく。

「こないで…」

何か夢物語を語るかのように楽しそうにする名雪に戦慄を覚え、香里は言い放った。

その言葉に「ひどいよ〜」と微笑みながら、名雪は言葉を続ける。

「彼も、優しいんだけどね。彼のほうが違ったの。私が欲しかったのとは、全然違うの」

そう言って、再び一歩近づく。

「祐一とは、声も、顔も、何もかも違ったの。…それに」

名雪はそう言って、目を細める。



「…エッチしても、気持ち良くなかったの。祐一のほうが、何倍も気持ちよかったんだよ」



クスリと妖艶に微笑む名雪に、香里は背筋を凍らせた。

その笑顔は、自分の知らない名雪。

一体、何が。




――――彼女を妖しく、魅力的に見せるんだろうか。




「それで、ね。昨日香里に訊いた時、判ったんだ」

「………何の事、よ」

ゾクリとする背筋を意識しながら、名雪に先を促す。

「うん。…香里、幸せそうだった。それで、確認したんだよ」

そう言って、再び名雪は一歩近づく。

「それで、あぁ、やっぱりって思って。それで」




「―――――凄い悔しくて、憎かった」




ゾクリ、と再び香里の背筋は凍る。

だが、今度の感情は『恐怖』。

それほどに、名雪は香里を睨み付けていた。

「その時、分かったんだ。私はやっぱり、祐一じゃないとダメなんだなって」

嫉妬、憎しみを瞳に宿らせながら、名雪は香里に微笑みかけた。

「だから、告白したの。それで、抱いてもらった」

凍りつくような瞳を向けながら、名雪が一歩近づく。

「そうしたら、凄い気持ちよくて、凄い幸せだったの」

名雪が近づくにつれ、香里の思考はどんどんと停止していく。

その話す内容に、香里の理性が受け入れるのを拒否していた。

だが、名雪は言葉を続ける。



「だから、全部欲しくなっちゃったの…祐一が」



ごめんね、と場違いな笑みを一瞬浮かべてから、名雪はまた一歩近づいた。

「ねぇ、香里なら判るよね?私の気持ち」

「…判るわけ、ないでしょう!」

名雪の問いかけに、香里は拒否の姿勢を取る。

そんな香里を見て、名雪はクスリと笑って手を伸ばす。

「今日、私を抱いたって言われて。今日の私の行動を思い出して、凄く悔しくて、憎かったでしょ?」

「……それと、貴女の気持ちを一緒にしないで」

「同じだよ。だって、凄く悔しくて、憎いんだもん」

「貴女に、私の気持ちがわかるわけないでしょ!」

「判るよ。だって同じだもん、今の香里。香里に祐一とエッチしたって聞いた私と」

「一緒にしないでって言ってるでしょ!」

そっと頬に触れた名雪の手を払いのけて、香里が否定する。

だが、名雪は止まらなかった。

「同じだよ。香里だって思ってるでしょ?」

「……何が、よ」

聞いてはいけない。

そう理性が訴えかけるが、香里には他に道が無かった。

ここまで馬鹿にされて黙っていられるほど、香里は馬鹿ではない。

結果、彼女は知る事になる。

彼女と目の前の少女にある、共通点を。




「…香里だって、祐一が欲しいでしょ?祐一の全てを自分のものにしたい。自分の全てを祐一のものにして欲しい。そう、思ってるでしょ?」




その問いかけに、『違う』と即答出来なかった。

いや、出来る人間は居ないのかもしれない。

名雪の言った事は、ある意味で当然の事。

恋をする誰もが、根底に持っている感情ではないだろうか。


だが、今の香里は混乱していた。

即答出来ない自分が居る。

彼女と同じ事を考えている、自分が居る。

それだけで、彼女を混乱させるには、十分だった。

それに気付き、名雪はクスリと笑う。


「ほら、否定出来ない。だから香里は私と同じなんだよ」

「ちが、う…」

「じゃぁなんでそこまで私を憎むの?そんなに悔しがるの?祐一を手に入れられなかったからでしょう?」

「ちが…、ちがう…」

「違わないよ。…ねぇ、香里。やっぱり私達、親友なんだよ。だって似てるもん」

「ちがっ、違うっ!」

「ね、香里。…今の私達ってさ」

名雪はそう言って、恐らく今日一番の笑顔を香里に見せる。




「――――まるで、ドラマの主人公みたいだよね?」




その瞬間、何かがプッツリと切れた。














無言で家路へと急ぐ。

少し予定より遅くなってしまった。

携帯に電話がかかってきていないから、まだ大丈夫かもしれない。

もしかしたら、栞や母さんが文句を言ってくるかも。

そこまで考えて、先程までのやり取りを思い出す。

彼女は異常だ。

なにがドラマの主人公だ。

そうは思うが、否定できない。

現在の状況に、陶酔している所があるのも確かだ。

そうすると、自分はやはり彼女に似ているのだろうか。

そこまで考え、思考を停止させる。

早く家に帰らなければ。

家族が心配しているだろう。

そう考えている時、ふと。

口から言葉が零れた。



「―――相沢君は、渡さない」



クスリと微笑み言ったその顔は、酷く、憎んだ彼女と似ていた。













月が公園内を照らしている。

噴水の前に立ち、携帯で電話をかける。

「――あっ、お母さん?うん、私――うんっ。ちょっと友達の家に泊まる事になったから――うん、ごめんなさい」

楽しそうな親子の会話。

だが、彼女は笑っていない。

「――うん、判ってる。―――う〜、酷いよ、お母さん。―――うん、おやすみなさい」

携帯を切り、バックに仕舞う。

そのまま手を顔にもっていき、頬を撫でる。

「…痛いなぁ、も〜」

少し熱を持った頬が、先程の彼女を思い出させる。

やはり彼女は親友。

彼女も、自分と同じ事を考えていた。

そう思うだけで、自然と笑みが零れる。

「…明日、学校どうするのかな」

そう思い、一旦携帯を取り出そうとしたが、止めた。

ここからなら、直接行ったほうが良い。

また、いろんなお話をして。

まるでドラマのような時間を過ごして。

また、抱かれて幸せになりたい。

思い立つと、行動は早かった。

すぐさま公園を後にし、商店街を抜けて住宅街へ入る。

目的地はすぐそこだ。

そう思うだけで胸が高鳴る。

やがて玄関の前に辿り着く。

ピンポーン

呼び鈴を押した途端、胸の鼓動が早鐘を打つ。

感情がはちきれてしまいそうだ。

「…はい」

少し普段よりトーンの低い声に、胸がドキリとする。

こんな祐一の声、久し振りに聴いた。

耳にこびりついた声に、身体が火照るのを感じる。

カチャ、と目の前で音がして、扉が開く。

「………な、ゆき」

自分の名を呼ぶ声に、涙が出そうになる。

もうショーツは濡れているかもしれない。

感情の制御が出来ない。

ただ一つ、彼女が出来た事は。


「――――お邪魔して、いいかな?」


彼が絶対拒否出来ない、彼に確実に受け入れられる行動をする事だった。