深く深く、奈落の底まで続いているような先の見えない洞窟が、切り立った崖の中でぽっかりと口を開けていた。
常人ならばその洞窟はおろか、崖を覆う鬱蒼と生い茂った異形の植物を前に思わず尻込みし、人間を求めて街まで引き返すだろう。
『魔酔わせの樹海』
人間達が離れた所で国を創る前から存在し、魔族すらも惑わせ、狂わせ、彷徨わせてしまうと言われる、異形達の住処の樹海。
磁界は歪み、時を刻む事を忘れ、大空から照らされている筈の陽の光すら射さない、深く、暗いこの森。
文献に従えば、樹海の中心にある切り立った崖、そこに開く奈落への入り口は太古の文明への入り口、『遺跡』が眠ると言われている。
それゆえ、この森には時々常人では無い者がやって来る。
『未知の文明の持つ力』という欲に目が眩み、死をも恐れず樹海に入る者。
樹海に生息しているという異形の魔物、そしてその主と言われる魔族を悪とし、崇める神を正義とした狂信者。
ただ単に『腕試し』の為に訪れる、愚か者。
そして、樹海の近隣に広がり、栄えようとする人間の築いた『王国』の調査団の者達。
中には『神の御遣い』『現世神』と呼ばれる者も、『英雄』と呼ばれる高名な者も居た。
だがその尽くは、二度と樹海から世に姿を現す事は無かった。
以降、『王国』の人間は樹海を恐れ、その深部に生息する異形達の未知の力に怯え、立ち入りを禁じていた。
だが今、恐れられ、禁じられた樹海の中で、一つの『意思』が、狂わず、惑わず、確かに生存していた。
彼の者は樹海に入り、深部を抜け、崖に辿り着くと、何の恐れも、達成感も表す事無く奈落への入り口を潜る。
短くも長い時が過ぎた頃、奈落へと落ちた者は静かに姿を現す。
だがやはり、彼の表情には達成感も虚脱感も無く、淡々と現実を見据えるだけ。
「……ここで、最後だったんだけどな」
奈落から出てきた彼は一言ぼやくと、全身を見渡す。
樹海の中で唯一光の射す崖の上に居る彼の目には、自身の身体が赤紫に染まっているのが判った。
その全てが自身のものでは無く、奈落の中に居た『元住人』のものである事も。
彼は一つ、自身に対し呆れを含んだ溜息を吐くと、両手を広げ、声を出した。
「……『風』よ」
途端、彼の身体は柔らかな風を纏い、大空へと浮かび上がる。
天高く舞った彼は足元を見据えながら、次の行動を思い浮かべる。
ひとまずは、身体を清める泉を探す事にした。
物語は、過去から始まる。
【唐突】
そう、唐突に世界は混迷を極め、闇が人々を恐怖で包み込んだ。
魔王と呼ばれる、異界からの侵略者と、それに付き従う魔族。
後の史書に、この出来事はこう記された。
『スメラ人魔大戦』
スメラ――地母神を意味するこの大陸への魔族進出は、この土地に息づく生命全てを巻き込んだ。
空は闇に染まり、大地は瘴気漂う世界と化し、獣は形を変え、魔獣となり果てる。
姿を現した魔王は高々と両手を掲げ世界を、人の住む世界を意のままに操ろうと宣言する。
そして、大陸に広がる国々への、侵略が開始された。
数では圧倒的に勝った人間。
しかし異界の軍勢は、その異常なまでの力を使い、破壊の限りを尽す。
一つ、二つと国が滅ぼされ、十五あった国が残り六つとなったのは今から七年前。
犠牲者は、数える事など出来る訳が無かった。
そして今から六年前。
当時、最大の軍事国家と言われ、鉱の国として名高かった軍都『アンベリアル』。
魔族の軍勢に攻勢をかけられ、あわや陥落かと思われたその時。
強大な力を誇る、魔族である軍勢の司令官は、闇に屠られた。
次々と起こる奇跡の連続に、アンベリアルの軍隊は唯驚愕するのみ。
百すら及ばぬ魔物の群れを一瞬で消し飛ばし、脇目も振らず司令官を仕留めたその者達は、見事魔族の軍勢を追い返したのだった。
後に『アンベリアルの奇跡』と呼ばれるその現象は、一年後に起こる最大の奇跡への序章に過ぎなかった。
水の都『ファロール』、炎の国『ラマンディア』、風の里『ウィンガルド』、信仰の街『カノン』。
そして、年若くも栄えていた新都『カーレオン』。
アンベリアルを加え、この六つの都市を中心とし栄えてきた六つの国は、奇跡を信じ国の防衛に努めた。
それに業を煮やした魔王は国を滅ぼす為、最も手近だった新都『カーレオン』へ軍勢を率い自ら赴き、その暴力を揮わんとしていた。
だがその暴力が、『カーレオン』に揮われる事は無かった。
魔王率いる大部隊が異界からの門を離れ、本拠地ごと『カーレオン』に進軍中、『唐突』に消え去ったのだった。
突然世界に光が走り、次の瞬間闇は晴れ、天からは長く射す事の無かった太陽の輝きが降り注ぐ。
瘴気に覆い尽くされた大地は色をつけ、国を滅ぼさんとした魔族は消え、魔獣は森に帰り、風が優しく世界中を癒した。
魔王進軍に対する防衛の準備をしていたカーレオンは世界に起こった奇跡を知り、王自らが部隊を率い都を飛び出した。
魔王軍の進軍予測地点へ急いで赴き、奇跡の現場を目の当たりとする。
そこは、赤紫色に彩られた、『死』の充満する世界だった。
辺りでは魔獣が血を吐き出し大地を赤に染め、魔族が息絶え紫の血を大地に染み込ませる。
多くの兵は地に腰を落とし、腹の中にある少ない食物を嘔吐する。
余りの場の凄惨さ、死を漂わせる空気に精神が耐える事が出来なかった。
だが、気丈な王とその護衛、近衛兵と呼ばれる数名の人間はその地に足を踏み込み、より『死』の強くなる中心へと、足を進めた。
奥へ進むにつれ濃くなる血の臭い。
それでも歩みを止めず、王と近衛兵は事の中心へと辿り着く。
そこで見たのは、たった六名程の人影。
彼らは王が来た事を気に止めず、足元に平伏す、未だ瘴気を漂わせる人より大きな魔族へ視線を向けていた。
「私達が出来るのはここまで。後はここの者達に頑張って貰うしかない」
王の耳に届いた囁きは、意外にも年若いと思われる女性の声だった。
「それと、キミにも事後説明して貰わないとね」
「―――面倒な役回りを押しつけられた気がする」
同じ女性の声に続き聞えたのは、幼い声。
明らかに、子供の放つ音色のする声だった。
「しょうがないでしょ。私達が彼等と関わる訳にはいかないんだから」
「オマエ達はどうするんだよ。残るのか?」
「いや、俺達ぁ戻って報告しねぇといけねぇんだ。てぇ事で、任せたぞ」
「―――ちぇ、残るのはやっぱ俺だけかよ」
場にそぐわぬ会話を展開する目の前の六名。
辺りの凄惨な雰囲気とは裏腹に、それぞれの顔はまるでお茶会の最中のように笑顔だった。
少年に声をかけられた青年二名と女性を含めた三名――これも王の主観だが――は、拗ねたような少年の頭を掻き毟ると、目の前の女性に声をかける。
「じゃぁ、とっととやっちまったほうがいいんじゃねぇか? なぁ?」
青年はそう言うと、まるで悪戯っ子のような笑みを浮かべ、後ろ―――王と、その近衛兵に視線を向ける。
すると、青年と共に少年の頭を掻き毟っていた女性ともう一人の青年も、王へと視線を向けた。
その瞳に灯る光は、深紅。
まるで血のような深い紅をした瞳は、明らかに目の前に平伏す―――恐らくは魔王であろうモノと、同じ光を宿していた。
彼の言葉に頷いた、紅い瞳の女性とはまた別の女性は、傍らに立つ、同じ顔をしたもう一人の女性と共に、王へと視線を向ける。
その瞳に灯る光は、蒼銀。
清浄なる蒼い光を放つ瞳は、ある種の神々しさを内包していた。
蒼銀の女性二人は静かに頷くと、両手を天に掲げ、呟く。
「―――浄化と癒しの光よ」
「―――今ここに集い、祓い賜え」
途端、彼女達二人の掲げた掌に光が集まり、眩い輝きが辺りを包む。
思わず手で目を覆う王達は、しかし、その光景を見逃す事は無く、奇跡の再現が行われようとしている事を民に伝えるべく、目に焼き付けようとしていた。
彼女達に集った光は輝きながら更に集い、放たれる。
『マグナス―――エクソシスムス』
【偉大なる祓魔式】
彼女達がそう呼んだ光は弾け、大地に降り注ぐ。
死の世界と成り果てた大地は光により浄化され、死を放つ魔獣と魔族は染み込んだ瘴気と共に塵へと還る。
そして清浄なる輝きが止んだ頃、王達の目の前には―――少年が一人、静かに佇んでいた。
『アンタが王様? へぇ、若いんだね意外と』
ボロボロの服を身に纏い、左目が髪で隠れた少年にそう声をかけられた国王は、苦笑と共に部隊に戻り、少年を連れ都へと凱旋した。
そこへ集まった都の民に向け、王は戦争の終結と、魔王の殲滅を報告した。
―――少年と共に居た、数名の『名も無き英雄』の起こした奇跡だと付け加えて。
報告を終えた王は少年を王城へと招き、事の顛末を問う。
それに対し少年は、『言えない事が多いんだけど』と注意を入れてから、集まった国を治める王や大臣に、語り始めた。
『自分がこの戦争に首を突っ込んだのは一年前』
そう語る少年は、誰が見ても明らかに幼さを残す出で立ちである。
辺りがその事に少々ざわめくが、王はそれを黙らせ続きを催促する。
『アンベリアルが魔王軍に攻められてた所に丁度鉢合わせて、丁度良いからみんなで追っ払った』
『その後はファロール、ラマンディア、ウィンガルドに行って、魔王軍を追い払った』
『カノンに行こうとした所で魔王がカーレオンに直接乗り込むって聞いて、チャンスだと思ってカノンから変更して魔王軍を奇襲した』
『そして、魔王軍を打ち倒した』
簡潔に事の顛末を述べた少年は、そう言って説明を終えた。
彼の話を聞いた者の中に笑い飛ばす者、出鱈目だと少年を罵ろうとする者は少なく無かった。
だがそれを、王とその近衛兵達は一喝の元に静める。
魔王軍の最後の地、『死』の充満する高原に赴いた者達は、彼が述べる事の全ては本当だと信じざるを得なかったのだ。
地に伏した魔王と思われる禍禍しい亡骸と、その周りに佇んでいた彼等。
そして、その彼等を取り囲むように広がっていた魔族、魔獣の死骸。
最後に大地全てを癒し消え去った彼等と共に、目の前の少年が居たのを王達は確かにその目で見ていたのだから。
彼等の最後に起こした奇跡の再現―――【偉大なる祓魔式】すら拝んだ王達には、少年を含む彼等が『アンベリアルの奇跡』を起こしたのだと聞いても、納得以外は出てこなかった。
王と近衛兵が自身の考えを場に集まる大臣や貴族の長に伝えると彼等は静まり、少年の話に信憑性を覚える。
途端、場は沸き立ち、改めて魔王殲滅の報に各々が喜んだ。
そんな状況を無視し、少年は隣に座る王へ声をかける。
『あのさ、何年間かだけ、この国に滞在させて貰いたいんだけど』
申し出た少年は非常にばつの悪そうな顔をしていたが、王はその言葉に快く頷き、頼んでも居ない王城への滞在を少年と、その場の大臣達に告げた。
国の、いや世界の英雄とも言うべき者達の一人である少年の滞在はあっさりと許可され、逆に感謝の言葉すら飛び出す始末だった。
すると、近衛兵の中の一人、部隊長である将軍は、少年に滞在の理由を問い掛けた。
『―――まぁいいか。遺跡、遺跡の探索だよ』
数瞬悩んだ後、何でも無い事だという風に答えた少年に、今度は王が問い掛ける。
『英雄が一人である少年よ、貴方の名を、お聞かせ願えないだろうか』
恭しく、改まって問いかけた国王に、少年は答える。
『俺の名は―――ユウ、ユウ=レイド=ファースト。』
少年の答えた名を知ると、国王は大きく頷き、宴の準備をするようにと大臣を呼びつけ椅子から立ちあがった。
民と共に、奇跡を起こした英雄に感謝を述べる宴を始める為に。
これが、今から五年前に終結した戦争の全てである。